「1914年のクリスマスの奇跡」

1914年、第一次大戦下フランス・スコットランド連合軍と、ドイツ軍が連日砲弾を鳴り響かせているフランス北部の村。クリスマスだけは家族のもとへ帰りたいと兵士の誰もが願っていましたが、戦況は熾烈さを増す一方。
気温は氷点下まで下がり、小雪のちらつく聖夜。第一次世界大戦の最前線にある戦場では、兵士たちが憂鬱な気分で、故郷に残した家族に思いを馳せていました。各国では、前線の兵士に少しでもクリスマスの気分を味あわせようと、物資を送ります。

メアリー女王は、35万5千名のイギリス兵一人一人にプレゼントを用意。ドイツ軍では、本国から届けられたクリスマス・ツリーを飾り始めました。フランドルの戦場、兵士達は故郷から届いたクリスマスカードを読みながらも、心は沈んだままでした・・・

何処からか、野太い声で「きよし、この夜・・・」と歌声が聞こえてきました。その響きは木霊のように荒んだ戦地を包み込み、徐々に兵士達の声が一つに

ぬかるんだ塹壕に、「クリスマスおめでとう!」という声が響き渡りました。その夜、各地の戦場は音楽の力で奇跡が起こり続けたといいます・・・

ドイツ軍兵士のヴァイオリンの『ラルゴ』の響き
が、戦場を包み込みます。通称「バイエルンの森」では、フランス軍の美しいテノールの声に酔いしれました。
ドイツ軍の即席楽団がクリスマスソングを歌い終えると、それに答えるようにイギリス軍も「牧人ひつじを」を歌います。ドイツ軍は拍手を送り「もみの木」を合唱。そして、両軍が声を合わせて、「神の御子は今宵しも」を歌いました・・・

前線の至る所で、兵士達はクリスマスを祝おうと努力します。こうして「1914年のクリスマスの奇跡」は、イギリスとドイツが対峙する前線のおよそ1/3の地域で起こったのでした。

この一時休戦で、お互いの陣地に数週間もの間放置されたままの遺体を交換し、丁寧に埋葬しました。従軍司祭の発案で、合同の追悼式も行います。従軍の聖職者がいなかったドイツ側の為に、イギリス軍司祭は彼等の為に神に祈りました。

木の簡素な十字架
を作り、多くの名も無き兵士の墓に立てて。故郷に帰れぬ戦友の墓標には、ただ一言、「祖国の自由の為に」とだけ、刻まれたのでした・・・

そして翌年の1915年のクリスマス。奇跡は再び起こります。その朝、フランスのラヴェンティエ村近郊の戦地では、バイエルンの兵士とイギリスの連隊が対峙していました。

イギリス軍兵士が前線の相手に声を掛けます。「ハロー、フリッツ!(やあ、ドイツ兵)」
ドイツ軍兵士もそれに答えて叫びます。「ハロー、トミー!(やあ、イギリス兵)」
そして賛美歌を歌い、今日戦う意思が無いことを確かめ合いました。兵士達は、上官の命令を無視してお互いに歩み寄り、チョコレートやタバコ、ジャム等を交換し合ったのです。
いつの間にか戦場では、サッカーの試合が始まりました。ボールを好きなように蹴りあい、雪の中を無邪気に転げまわり・・・双方とも50人位の兵士が集まって、若者らしく、心から
大好きなサッカーに興じた
のです。

『友好的な雰囲気の中、兵士たちは軍帽とヘルメットを脱ぎ捨てて、ゴールポスト代わりに使うことにしました。ひとりの兵士は当時の様子を詳しく語っています。
「夜間のパトロールで匍匐(ほふく)前進しているときには十数キロはあると思っていた中間地帯が、実はせいぜいサッカー場2面分しかなかったんです」

凍てついた大地でサッカーを始めたのは、英国兵とドイツ兵でした。後に新聞に掲載された手紙によると、ある英国兵はザクセン兵から「国王の健康を祝して」とワインを一本渡されました。

それからこの英国兵の連隊はザクセン連隊と試合をし、「3対2でザクセンが勝った!」といいます。この試合の記録は、第133ザクセン連隊の公式記録として残っています。
その日は他の試合も行われました。「見渡せば、あちこちで塹壕から出てきた兵士たちが
互いに語り合い、サッカーを楽しんでいた」と第133ザクセン連隊のヒューゴ・クレムは語っています。

ある兵士は、「お互いが戦争をしているなんて、とても信じられなかった」と語りました』

(スタンリー・ワイントローブ著「クリスマス・キャロル:第一次世界大戦のクリスマス休戦」)
それは狂った戦争の最中、人間が人間である事を取り戻せるひと時。クリスマス休暇の後も停戦を続けたいと願う兵士もいたのですが、両軍の将校は任務を続行することにこだわりました。第2ヴェストファーレン連隊のグスタフ・リーベンスアーム中尉は、日記に次のように書いています。

『英国人は、サッカーをぜひともやりたかったので、休戦の件ではとても感謝していると第53連隊に言ったらしいのです。戦争というものがばかばかしく思えてきました。一刻も早く終わらせなくてはなりません』

後方で自分の身の安全を確保していた士官たち
は、この時ならぬ和平の締結に怒り、「今後敵兵と友好関係を持った者は、死を持って罰する」と緊急の通達を出しました。味方に打たれれば、敵弾に当たりより死ぬ確率が当然高い。哀しいことに、若き兵士たちは各々の塹壕に戻ったそうです。

しかし前線によっては非公式の停戦状態が2日間、1週間と続いたところがありました。
ある場所では6週間も平和が保たれたのです。その後、戦時中に3回のクリスマスを迎えましたが、二度とこうした奇跡は起こりませんでした。

”人と自然を調和しながら『持続可能な未来』を共創する”