越後の名刹、雲洞庵の柱の釘隠しに
不思議な紋の金具を見ました。
「菊水紋の錺金具」
実は雲洞庵の開基の師、傑堂能勝和尚
は、建武中興の名将楠木正成の子孫。
その四男正儀の嫡男で正能。
草創開山とされる傑堂能勝は、史書に
よると祖父の意志をついで南朝再興を
はかり、勅命により一族と共に足利勢
と戦います。
よると祖父の意志をついで南朝再興を
はかり、勅命により一族と共に足利勢
と戦います。
しかし、奮戦するものの、空しく敗れ、
流れ矢に当たって左ひざを負傷し、
再び戦場に立つことが叶わなくなりました。
流れ矢に当たって左ひざを負傷し、
再び戦場に立つことが叶わなくなりました。
その後福井の龍澤寺に遁れ、仏門に帰依し
梅山聞本和尚を師として修行を積み、
やがて越後の地に足跡を伸ばされて
雲洞庵草創開山となります。
そのご縁から寺紋に楠木家の菊水が
置かれたといいます。
置かれたといいます。
正成につながる南北朝室町期の歴史の
一端がそこに垣間見えます。
一端がそこに垣間見えます。
永い歴史の中で二つの皇統が対立する
南北朝は特異なものでした。
鎌倉幕府の専横による国家の荒廃を憂え、
後醍醐天皇は天皇復権の親政を望まれて
幕府討伐を計画。
後醍醐天皇は天皇復権の親政を望まれて
幕府討伐を計画。
この討幕計画が事前に発覚し、天皇は
隠岐に流され、幕府は持明院統の光厳
天皇を擁立。
隠岐に流され、幕府は持明院統の光厳
天皇を擁立。
元弘元年(1331年)、後醍醐帝に呼応した
楠木正成らが鎌倉倒幕の兵を挙げます。
多くの武将も天皇を助け、北条氏の大軍
を打ち破り鎌倉幕府を終わらせました。
元弘3年後醍醐帝は京に帰還、建武の
中興と呼ばれました。
この時代の武士たちは、私利私欲に目ざとく
、利の為には平気で寝返り、目まぐるしい
離合集散を繰り返したといいます。
、利の為には平気で寝返り、目まぐるしい
離合集散を繰り返したといいます。
足利尊氏たち北朝側は、上皇の院宣で
体裁を整え、全国の武将たちは利益配分
が高いと思われる優勢な北朝側に加担
しました。
体裁を整え、全国の武将たちは利益配分
が高いと思われる優勢な北朝側に加担
しました。
こうした中、楠木正成や北畠顕家など
少数の武将たちは、利に背を向け、
正義と信じる天皇に忠誠を尽くします。
正義と信じる天皇に忠誠を尽くします。
我が身にとっていかに不利であろうとも、
死をも厭わずに己が信じる「義」を貫き
通した正成公。
死をも厭わずに己が信じる「義」を貫き
通した正成公。
まさしく「義」は、武士道の根幹を為す
徳目でした。
徳目でした。
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