今年は徳川家康公の四百回忌に当たる年。
日光東照宮では、江戸時代から続く恒例
行事「百物揃千人武者行列」が行われました。
日光東照宮では、江戸時代から続く恒例
行事「百物揃千人武者行列」が行われました。
元和三年(1617年)4月4日、天海僧正の
指揮のもと、家康公の御霊を乗せた霊柩が
千人行列によって日光へ到着したことを
再現した、この「渡御祭(とぎょさい)」には
大勢の観光客が集まります。
千人行列によって日光へ到着したことを
再現した、この「渡御祭(とぎょさい)」には
大勢の観光客が集まります。
家康公の神霊を祀る東照宮は、駿府久能山
と日光の2ヶ所。
久能山東照宮の御例祭は、毎年4月17日、
家康公の命日に行われます。
戦国乱世の時代を駆け抜けた徳川家康公
は、数多くの武将の中でも戦国時代に終止符
を打ち、天下泰平の世を目指して、理想の
国造りにその生涯を捧げた偉大なる人物。
家康公の国政の基本理念は、国民一人ひとり
の人の命を大切にして、国内的には教育の
充実を図り、対外的には平和外交を発展させる
というもの。
と日光の2ヶ所。
久能山東照宮の御例祭は、毎年4月17日、
家康公の命日に行われます。
戦国乱世の時代を駆け抜けた徳川家康公
は、数多くの武将の中でも戦国時代に終止符
を打ち、天下泰平の世を目指して、理想の
国造りにその生涯を捧げた偉大なる人物。
家康公の国政の基本理念は、国民一人ひとり
の人の命を大切にして、国内的には教育の
充実を図り、対外的には平和外交を発展させる
というもの。
ほど前、徳川家康公は病に伏せる駿府城で
側近たちを呼んで次の4点を告げたといいます。
側近たちを呼んで次の4点を告げたといいます。
(1)遺骸は久能山に埋葬すること
(2)葬式は江戸の増上寺で行なうこと
(3)位牌は徳川家の菩提寺である大樹寺に立てること
(4)一周忌の後に、日光に小堂を建てて勧請
(分霊)すること
(分霊)すること
翌年の元和3年3月15日、徳川家康公のこの
遺命に従い、勧請の総指揮にあたった南光坊
天海僧正をはじめ家臣たちは、久能山から日光
へ向けた盛大な勧請となる「神霊遷し」を始めました。
この勧請を指揮した天海は、これを「勧請」では
なく「宮遷し」と称し、神霊を「柩」で運びました。
そのため、「遺骸は千人行列で日光へ運ばれ、
久能山から日光への改葬が行われた」と巷間
に信じられるようになったようです。
天海はこの時、久能山に次のような歌を残し、
実際に「宮遷し」と称しています。
あれハある奈け連ハ奈ひ尓駿河なる
く能奈き神の宮遷し哉
(霊柩の中に御尊体があると思ってもないと
思ってもどちらでも良い これは御尊体なき
宮遷しなのだ)
天海ら幕府は、その後も久能山を守りつづけ
ましたが、一方で世間の耳目を日光に集めよう
と尽力しています。
久能山には神聖なる真の墓所としての役割
があり、日光は日光で、幕府の安泰をはかる
上での大事な役割があったからです。
久能山東照宮とは何か、日光東照宮とは
何なのか、それぞれの本質的なあり方。
それを以下に整理してみます。
「久能山東照宮」
1.急峻な箱根山(火山)によって、江戸とは
厳しく隔てられている。
2.地理的には、楼門、社殿を含めて急峻な
久能山の山頂にあり、安易な参拝を拒んでいる。
3.徳川家光公による「寛永の大造替」後も
神廟が壮麗な石造りにされ、社殿の前に
五重塔が築かれるなど、幕府の手によって
密かに、一貫して守護されてきた。
4.久能山という山ひとつ全体が、神君家康公
の墓所となっている。
「日光東照宮」
1.日本最大の平野である関東平野の
最北部にある。
2.地理的には、緩やかな斜面にあり、
一般民衆も含め広く大勢の人々による参拝
を容易にしている。
3.徳川家光公による「寛永の大造替」に
より、東照大権現の圧倒的な権威(あるいは
御霊験)を見せようとしている。
4.その規模以外は徳川家康公の御遺命
通りと見られ、関東全体を鎮守する神として
鎮座している。”
江戸城と日光東照宮の2点を結ぶライン
は古来から『北辰の道』と呼ばれ、江戸から
伸びたラインは東照宮本殿を通り、北極星
へと続くもの。
本殿入口の陽明門の真上には、北極星(
北極星=宇宙を主宰する神)があります。
家康公は生前より星辰信仰が厚かったと
言われ、古代中国では北極星に対する
信仰が厚く、『宇宙の主宰神』と崇められ、
日本の天皇の語源はここから来ていると
言われています。
”天之御中主神は、天の中心にいる神様で
あり、古くからの名前は「北辰妙見尊星王」。
古代から方角を知る基準だった北辰(北極星)
と、その周りを回る北斗七星を神格化した存在
で、導きの神であり、人間の運命や全方位の
守り神とされています。
「天地(あめつち)初めて発(ひら)くる時に、
高天原(たかまがはら)に成りませる神の名は、
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」
(『素晴らしい伝統をもった国に生まれて』)”
家康公はこれらを踏まえ、国を統治する
将軍のいる江戸城の真北の日光に遷座し、
(北極星=宇宙を主宰する神)と同一化
させたのでしょう。
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