『英国が称えた日本の武士道』

2003年10月のこと、一人の英国紳士が生まれて
初めて日本の土を踏みました。

84歳という高齢に加えて、心臓病を患っていた、
紳士の名は、サー・サムエル・フォール
















元軍人で外交官であったフォール卿が来日したのは、
ある日本人にお礼を言うためでした。

「死ぬ前に、どうしてもお礼を言いたい。この歳になって
も、一度として彼のことを忘れたことはありません」


彼とは、日本の帝国海軍軍人であった工藤俊作中佐

時は、昭和17年3月、英重巡洋艦「エクゼター」、「エン
カウンター」は、ジャワ海脱出を試みて帝国海軍艦隊と
交戦し、相次いで撃沈されます。

その後、両艦艦長を含む約450人の英海軍将兵は漂流
を開始
しました。


















翌日の午前10時頃、一団は生存と忍耐の限界に達して
いました。一部の将兵は、苦しさのため自決する劇薬を
服用しようとしていたといいます。

駆逐艦「雷」は、直属の第三艦隊司令部より哨戒を命じ
られ、単艦でこの海面を行動中。

「雷」の乗員は全部で220名、ところが敵将兵は450人
以上が浮游していたのでした。

敵潜水艦の跳梁が甚だしいこの海域で艦を停止させる
ことは、自殺行為に等しい
もの。

漂流している英兵の救助を決断した、「雷」艦長
工藤俊作少佐
は、当時41歳。

工藤艦長は、敵潜水艦の音響の有無を再三に渡って
確認させ、その上で「敵兵を救助する」と号令し、
マストに「救難活動中」を示す国際信号旗を掲げました。

しかし、戦闘中の海域で停船すれば、敵潜水艦や戦闘機
にとっては絶好の攻撃目標
となります。

また英米による石油禁輸措置により、石油が乏しかった
日本にとっては、発進・停止を繰り返す救助活動は、
その後の戦闘行為を不可能にするもの
でした。

「艦長はいったい何を考えているのだ。戦争中だぞ」との
批判が出ます。

しかし、批判の声を沈静化させたのは、工藤艦長の
リーダーシップと人徳
日頃から艦内での鉄拳制裁を
一切禁止し、階級の分隔てなく接して、人望を集めて

いました。

工藤艦長は「敵とて人間。弱っている敵を助けずフェア
な戦いは出来ない。それが武士道である」
と命令。
日本の将兵達は自らも海中に飛び込んで、救助します。

さらに救助した英兵を貴重な真水で洗い、衣服まで提供
したのです。

工藤艦長は救助した英兵たちに、こう話します。
「貴官達は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の
名誉あるゲストである」


そしてディナーを振る舞うと、翌日ボルネオ島の港で、
オランダ病院船に捕虜として全員を引き渡した
のでした。

英国海軍の規定には、危険海域における溺者救助活動
では、「たとえ友軍であっても義務ではない」としていました。

ところが敵兵である自分たちを、戦域での危険を顧みずに
救助しただけでなく、衣・食まで与え、敵国の病院船に
引渡した
ことに、英兵たちは大いに感激。

英兵の1人であったフォール少尉は、漂流中に現れた敵
艦隊を見てダメだと思った
そうです。

ところが、救助信号旗が揚がったのを見て、とても安堵した
といいます。

フォール少尉終戦後英国に帰国し、後にSir(サー
:卿)の称号が与えられるほど有能な外交官
となります。

















一方、工藤艦長は、「エンカウンター」乗員救助後に、 
司令駆逐艦「響」の艦長に就任し、しばらくして中佐に
昇進。 

しかし、その後は体に変調をきたし、転地療養のため
故郷の山形に転居し、敗戦を迎え
ました。 

戦争が終わり、長い時が流れた平成8年フォール氏は
「マイ・ラッキー・ライフ」を出版。

「この本を私の人生に運を与えてくれた家族、そして私を
救ってくれた大日本帝国海軍中佐・工藤俊作に捧げます」

と冒頭に書きました。

「自分が死ぬ前にどうしても一言お礼を言いたかった。
一日として彼の事を忘れた事はありません」 


昭和十九年「雷」は敵の攻撃を受けて撃沈され、乗員は
全員死亡するという事件
があり、工藤艦長はその衝撃
からか、戦後、戦友と一切連絡を取らず、親戚の勤める
病院の手伝いをして余生を過ごし
ていたそうです。

そして昭和54年1月に77年の生涯を終えていました。

フォール卿の来日によって、スラバヤ沖の救出劇は、
初めて日本人に知られることになりました。

身内にさえ、工藤艦長は話していませんでした。親戚の
者は「こんな立派なことをされたのか。生前は一切軍務
のことは口外しなかった」
と涙ながらに語りました。

日本海軍軍人には“己(おのれ)を語らず”というモットー
があり、日本海軍は“沈黙の海軍”とも言われています。

スラバヤ沖での救出劇が世に知られて、工藤艦長の姪
にあたる方が思い出したことがあります。

工藤元艦長がいつも持っていた鞄が、あまりにボロボロ
なため、「なぜ新しいものに替えないの」と訊ねると、
「これは昔、英国兵からもらった大切なバッグなんだ」

と語ったそうです。

フォール卿は埼玉県川口市の薬林寺を訪れ、工藤艦長
の墓前に献花し、手を合わせました。

スラバヤ沖の海上に出会った二人は、67年の月日を超え
て、幽明堺を異にはしても、再会を果たした
のです。

 



 














”人と自然を調和しながら『持続可能な未来』を共創する”