『君が代は千代に八千代に』

「君が代は 千代に八千代にさざれ石の 
いはほとなりて 苔のむすまで」

天皇誕生日の今日、日本の国歌について
その元を考えました。





















1870(明治3)年、英国公使から国歌があった方
がいいと進言された明治政府は、歌詞の選定を
薩摩藩士歩兵隊長であった大山巖に一任します。

大山は、古今和歌集の中から上記の句を採用、
明治15年文部省は国歌として制定したそうです。

青渓書院で学び、「但馬の先人」として知られていた
文部省参事官、濱尾新はこの国歌選定に参画して
いました。

「但馬の先人」として知られる人物には、
沢庵宗彭、円山応挙、池田草庵、北垣国道、原六郎
濱尾新、河本重次郎、松岡新右衛門、加藤弘之、
櫻井勉、古島一雄、斎藤隆夫、柴田勝太郎、東井義雄
などが挙げられます。

その共通項は、単独行(群れをつくらない)、
清廉・潔白、勤勉・実直


濱尾は1849年、豊岡藩(現在の兵庫県豊岡市京町)
出身の濱尾は、慶應義塾や大学南校(後の東大)で
学び、文部省に出仕。

1877年の東大創設時には法理文3学部の副総理
として活躍し、1893年45歳の若さで第3代総長
就任します。

欧米の教育制度にならい、講座制(各講座を
一教授が担当する制度)や教授会を導入
するなど
の大学改革に尽力し、キャンパス整備にも力を
注いだといいます。

正門から銀杏並木を経て大講堂へ至るという構想
は濱尾によるもの。

フランス文学者・随筆家であり、東大教授を務めた
辰野隆氏は、「濱尾新先生」という題でこう述懐
されています。




















”先生は尽忠の君子であつた。東大の陸上運動会
や短艇競漕や剣道、柔道の大会の折には、
いつも先生が天皇陛下の万歳を三唱して会を閉づる
のが吉例になつてゐた。

而も万歳の声が先生の肚の底から発せられる時、
僕等学生は厳かにして且つ朗かな気分になつて、
心から先生の音頭に和して高らかに万歳を唱へ、
日本帝国の学生たる幸福を満喫したのである。

先生はまれに見る訥弁であつた。巧言令色には
凡そ無縁の仁者であつた。
 
而も先生の演説の拙さ加減が世の常の雄弁にも
まして敬愛されてゐたのだから只貴かつた。

嘗て青山胤通博士が先生の演説を聴きながら、
会心の笑を漏らして、『あの拙さが何とも言へない
――。』と三歎してゐたのを僕は小耳に挟んで、
これある哉と思つた。

先生は、また、話の長い人であつた。当時の多く
の教授のうちでも、浜尾先生から電話がかかると
、先づ短くて三十分と定めて、電話室に椅子を
持ち出す人が少くなかつたといふ。

(中略)

 



















浜尾先生の在任中、嘗て陸軍当局が一年志願兵
制廃止の意向を帝大へ通告したことがあつた。

先生は、たちどころに、国家の学問といふ見地から
断乎として反対したのであつた。学生の修業期が
中断されるのを国家の由々しき損失だと信じた
先生は、自ら陸軍省に赴いて、当局を相手に例の
大仏のやうな態度で志願兵制廃止の非なる所以
を切言した。

若し陸軍当局にして、飽くまで国家の学制を覆す
やうな意向を固持するなら、帝国大学でも今後
一切陸軍の依託学生の修学を拒絶する他はない、
と力説して、軍部が主張を飜へすまでは、いつ迄
も席を立たうとしなかつたさうである。

先生の説くところは極めて平明で疑ひを容れる
余地もなく、加之しかのみならず、同じ言説を、
幾度となく繰り返されるので、流石の陸軍当局も、
先生の欺かざる熱意と根気と、終りなき訥弁に、
たうとうしびれを切らして、帝大の主旨を諒と
するに至つたのださうである。

而も堂々と所信を披瀝して憚らなかつた浜尾総長
が軍部の怒りも恨みも買はず、軍部は軍部で
帝大総長の人格と信念とを容れて、光風霽月の
襟度を示した点は、当時、学府と軍部とがその思ふ
所を忌憚なく語り合つて、倶に進まんとする美挙
として、心ある者に深い感銘を与へたのであつた。”


辰野氏が、いかに濱尾先生を敬愛していたか
よく感じさせられる文章であり、また先生の人柄や
日頃の様子も伝わってきます。

その濱尾先生も選定に加わってできた日本国歌

 「君が代」は、ドイツでの世界国歌評定会で第1位
の秀歌に選定
されています。

歌詞は今から約1100年前、醍醐天皇が紀貫之らに
命じて編集させた日本最古の歌集「古今和歌集」の
巻第七、賀歌の部の第三四三番
にある

「我が君は千世にやちよにさざれいしのいはほと
なりて苔のむすまで」
がルーツ。

この詠み人知らずの歌に、日本古来の雅楽の旋律
が取り入れられて、現在の曲となったそうです。

”人と自然を調和しながら『持続可能な未来』を共創する”