『おのれの心に適うところを楽しむ』

11月に初めて開く脳科学のワークショップ「適脳適所」
について、講師の篠浦伸禎先生と打ち合わせ。










先生は都立駒込病院の脳神経外科部長であり、
勤務後近くにあるお店で待ち合わせ。

午後少し早めに着いた私は、前から歩きたいと思っていた
千駄木や駒込の辺りをぶらぶら散策。
由緒あるお寺が立ち並ぶ一角に「緒方洪庵」
のお墓があることを知りました。

司馬遼太郎が書いた幕末の名作のあちこちに登場する
洪庵先生は、優れた蘭学者で医学者であり、
見事な教育者
でした。

下級武士の身でありながら、医師になるという大志を
貫き、心ならずも幕府の奥医師にまで登り詰めます。

29才のとき、大阪に「適々斉塾(適塾)」を開き、
医学のかたわら蘭学を指導


門弟は全国から集まり、幕末から明治にかけて活躍した
人材、大村益次郎、橋本左内、福沢諭吉、
大鳥圭介、長与専斎、高松凌雲
等、
幕末、維新に活躍した人材たちを多く輩出しました。



洪庵先生は、『おのれの心に適うところを楽しむ』
心境を意味する適々斎の号を名乗ります。

そこから、自身が教える蘭学の塾は「適々斎塾」あるいは
略して、「適塾」と呼ばれるようになったそうです。

明治維新から遡ること三十年(1838年)、洪庵先生が29歳
の時から53歳に至るまで適塾は続きました。

日本一の蘭学塾でありながら、建物の造り
や建付けは簡素あったといいます。その手狭な塾に、
未来を熱く夢見る若者たちが集まり、熱気に溢れ返っていた
ことでしょう。

『医師というものは、とびきりの親切者以外なるもの
ではない』
といった緒方洪庵。

『医者がこの世で生活しているのは、人のためであって
自分のためではない。

決して有名になろうと思うな。また利益を追おうとするな。
ただただ自分を捨てよ。そして人を救うことだけを考えよ。』




『名を求めず、利を求めず』、病弱の身で
志を貫くために、現代では考えられない様な、清貧を貫く覚悟。

その心意気が、有能な素地を持つ若者を惹きつけ、
その後の維新大転回への動きの中で幾多の
人材を輩出した原動力
となったことでしょう。

司馬さんは名作『竜馬がゆく』で、『文明という
松明を燃やし続ける限り、その作業を引き継ぐものが
いる限り、文明という命は永遠成り』

書いています。

『名こそ惜しけれ』『医は仁術』を重んじ、
司馬遼太郎を敬愛し、日々脳外科の治療に一所懸命
取り組まれる篠浦先生とその晩、医、脳、人財、日本、
未来について、大いに盛り上がったことは言うまでも
ありません。


”人と自然を調和しながら『持続可能な未来』を共創する”