『江戸から東京への温故知新』

昨日紹介したように今年は、徳川家康公
の四百回忌
ですが、「神田神社」の外神田
への遷座四百年
にも当たります。

江戸時代には、「江戸総鎮守」として将軍
から庶民にいたるまで、江戸の全てを守護
した「神田明神」


現在、一ノ宮に大己貴命(大黒様)、二ノ宮
に少彦名命(恵比寿様)、三ノ宮に平将門命
(まさかど様)の3柱
を祀っています。
















社伝によると、天平2年(730年)に出雲氏族
で大己貴命の子孫・真神田臣
により武蔵国
豊島郡芝崎村(現在の東京都千代田区大手
町・将門塚周辺)に創建されました。

平将門公は、承平・天慶年間、武士の先駆け
「兵(つわもの)」として、関東の政治改革を
はかり、命をかけて民衆たちを守った武人


将門公の生地は、現在の群馬県利根川付近
当時この一帯、坂東平野は、京の統治の
及ばない地域=「あずまえびす」
と呼ばれて
いました。

これを屈服させ、藤原政権の統治下に置く
ため、政策に従わない者を罰する行為が多く
行われていたことが、「常陸国風土記」
書かれています。














将門公は桓武天皇の流れを汲む
支配階級
の生まれでした。

しかし少年の内にうちに父親を亡くし、10人
近い家族を養う立場
にありました。

進歩的な思想と反骨精神を持った青年
育った将門公は、奴隷の解放政策などに
踏み切り、伯父国香との対立を強めます。

この争いが「承平の乱」へと発展しますが
、その実績から将門公は地元では民衆の
英雄というべき存在
となりました。

その死後、将門公を葬った墳墓(将門塚)
周辺で天変地異
が頻発。御神威として
人々を恐れさせたため、時宗の遊行僧・
真教上人が手厚く御霊を慰して、延慶2年
(1309年)神田明神に奉祀
します。
















そして戦国時代になると、太田道灌や
北条氏綱といった名立たる武将によって
手厚く崇敬
されました。

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原
の戦い
が起こり、徳川家康公が合戦に
臨む際、戦勝のご祈祷
を行いました。

すると、9月15日、神田祭の日に見事に
勝利
し、これ以降、将軍家より縁起の良い
祭礼として絶やすことなく執り行うよう
命ぜられた
といいます。

その後、徳川家康公が江戸幕府を開くに
あたり、風水に精通していた天海僧正の
知識を活用
したというのは有名な話です。











”関ケ原の戦いに勝利した家康は、慶長
8年に幕府を開きますが、その際、関東の
地相を天海に見させました。

天台密教の僧侶は、天文、遁甲、方術など
の陰陽道の知識を持ち合わせていました
が、天海はそれらを駆使して西は伊豆から
東は下総までの広大な土地の地相を
くまなく調べ、その結果、江戸こそが幕府の
本拠地とするのに相応しいと定めたのです。
その判断の基準となったのは、「四神相応」
でした。

「四神相応」とは、古代中国の陰陽五行説
に基づく考え方で、いわゆる風水における
大吉の地相を指します。

東に「青龍の宿る川」が流れ、西に「白虎の
宿る道」が走り、南に「朱雀の宿る水」、北に
「玄武の宿る山」がある土地は栄えると
考えられてきました。”

江戸を大都市にした天海は、何を仕掛けたのか

















元和3年(1616年)の徳川幕府による
江戸城拡大計画に伴う「神田明神」御遷座

はこれに沿うものでした。

”江戸の三大祭といえば、神田神社の神田
祭と浅草寺の三社祭と日枝神社の山王祭
ですが、実はこれらの祭は江戸城の鬼門
と裏鬼門を祀り浄める意味合いが秘められて
いたのです。

そして興味深いことに、徳川家の菩提寺と
なった寛永寺と増上寺、それに神田神社
を結ぶ直線と、浅草寺と日枝神社を結ぶ
直線が交わる点には、江戸城が位置して
いることがわかります。天海はこれほど
までに、徹底して鬼門・裏鬼門封じを仕組
んでいたのです。

さらに天海は、陰陽道の力のみならず、
実はもう1つ、大きな力を用いました。
それは、遥か昔の平安時代に関東一円
を席巻し、「新皇」と称した平将門公の力
でした。”












『歴史街道』2013年4月号に書かれた
宮元健次氏(作家・建築家)の文章、
「江戸を大都市にした天海は、何を仕掛
けたのか」
の続きにはこうあります。

”実はここに、江戸の町を守護する仕組
みが隠されているのです。
というのも、将門公の身体の一部や身
につけていたものを祀った神社や塚は
他にも江戸の各所に存在するのです
が、それらは全て主要街道と「の」の字
型の堀の交点に鎮座しているのです。

首塚は奥州道へと繋がる大手門、
胴を祀る神田神社は上州道の神田橋門、
手を祀る鳥越神社は奥州道の浅草橋門、
足を祀る津久土八幡神社は中山道の
牛込門、
鎧を祀る鐙神社は甲州道の四谷門、
兜を祀る兜神社は東海道の虎ノ門
に置かれました。

これら主要街道と堀の交点には橋が
架けられ、城門と見張所が設置されて
「見附」という要所になりましたが、天海
はその出入口に将門公の地霊を祀る
ことによって、江戸の町に街道から
邪気が入り込むのを防ぐよう狙ったの
です。

民衆が奉じる地鎮の信仰と機能的な
町づくりを上手く融合させた、まさに
設計の妙手と言えるでしょう。”


つまりは、江戸の町の発展や幕府の
安泰を
祈願して張られたものが、
「将門公の結界」でした。
















明治時代
に入ると、社名を「神田神社」
に改称。東京の守護神として東京府社
に定められ、明治七年(1874年)に
明治陛下御親拝の際、朝敵であった
ことから摂社・将門神社に遷座。

昭和59年、将門公の御神霊は110年
ぶりに御本殿に奉祀
され、今日に至ります。

江戸時代、世界で有数の百万人都市
なったその基は、単に街道や掘割という
機能面での仕組みのみではありません
でした。

天海僧正が精通した陰陽道の地相と
鬼門封じ、将門公の御神霊を重んじた
地鎮信仰までを用いたデザインという
ソフトを加えることで、ハードとの両面
での発展の仕組みが揃った
のですね。
 
江戸から東京温故知新に様々な人と
物、思いが感じられます。
 
 


















”人と自然を調和しながら『持続可能な未来』を共創する”