”万葉時代の我が先人達は「子の行く末を
念(おも)い、亡くなった親を懐(おも)って
いた」のに、
現代日本人は「子の行く末を思い、亡く
なった親を思う」事しかできない。
こう対比すると、文字が貧弱になれば、
我々の心の働きも貧しくなってしまう事が
実感できよう。”
念(おも)い、亡くなった親を懐(おも)って
いた」のに、
現代日本人は「子の行く末を思い、亡く
なった親を思う」事しかできない。
こう対比すると、文字が貧弱になれば、
我々の心の働きも貧しくなってしまう事が
実感できよう。”
現代日本人の精神のあり方に重要な問題
提起を行うこの文章は、以前「Japan on the
Globe 国際派日本人養成講座」で目にした
もの。
漢字研究の第一人者、白川静氏が語った
言葉を紹介していました。
”今、日本語がもう一度復活しなければなら
ない時期なのに、文字制限なんかがあって、
それがうまくいかない。
言葉が少なすぎるんです。自分の気持ちを
述べようとしても、それができない。
たとえば、「おもう」という言葉がありますが、
そう読む漢字は今は「思」だけしかないん
です。
この字の上半分は脳味噌の形。その下に心
を書くから、千々に思い乱れるという場合の
「おもう」です。
ない時期なのに、文字制限なんかがあって、
それがうまくいかない。
言葉が少なすぎるんです。自分の気持ちを
述べようとしても、それができない。
たとえば、「おもう」という言葉がありますが、
そう読む漢字は今は「思」だけしかないん
です。
この字の上半分は脳味噌の形。その下に心
を書くから、千々に思い乱れるという場合の
「おもう」です。
『万葉集』では、「おもう」というときに「思」と
「念」とがあって、「念」のほうが多いんです。
「念」の上の「今」は、瓶に蓋をするかたちで、
ギュッと心におもい詰めて、深くおもい念ずる
という意味の「おもう」です。
「念」とがあって、「念」のほうが多いんです。
「念」の上の「今」は、瓶に蓋をするかたちで、
ギュッと心におもい詰めて、深くおもい念ずる
という意味の「おもう」です。
それから「懐(壞)」という字の右半分は、上
に目があって、その下に涙を垂れている。
下の衣は亡くなった人の襟元です。その襟
元に涙を垂らして、亡くなった人をおもう、
に目があって、その下に涙を垂れている。
下の衣は亡くなった人の襟元です。その襟
元に涙を垂らして、亡くなった人をおもう、
だから追憶とか、故人をおもう時に使う。
「想」は遠く離れた人の、姿をおもい浮かべる
というときに使う字。
そうやって、みんな違うんです。それなのに、
故人をおもうというときでも「思」しかつかえ
ない。「思想」とか「追懐」とか「追憶」とか
そんな言葉はあるのに、「想」「懐」「憶」は
「おもう」と読ませないのです。”
「想」は遠く離れた人の、姿をおもい浮かべる
というときに使う字。
そうやって、みんな違うんです。それなのに、
故人をおもうというときでも「思」しかつかえ
ない。「思想」とか「追懐」とか「追憶」とか
そんな言葉はあるのに、「想」「懐」「憶」は
「おもう」と読ませないのです。”
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