「心に分別して思い言い顕す言語なれば、
心の外には分別も無分別もなし。
心と天地はもともとひとつのものじゃ。
心が正しく動けば天地も動く」
(「等伯」(上)阿部龍太郎)
牧谿法常が描いた「観音猿鶴図」。
心の外には分別も無分別もなし。
心と天地はもともとひとつのものじゃ。
心が正しく動けば天地も動く」
(「等伯」(上)阿部龍太郎)
牧谿法常が描いた「観音猿鶴図」。
この「観音猿鶴図」から大きな影響を受けたのが、
長谷川等伯。
等伯は、桃山画壇の覇者狩野永徳を脅かすほど
絵師としての成功を治め、自ら「雪舟五代」を
名乗り、長谷川派の長として活躍した画家。
30代で能登から上洛後、戦乱の渦中に巻き込まれ
、様々な人々との縁からその画力が次第に認められ
、永徳らの妨害を受けつつも、狩野派が手がける
聚楽第の襖絵に参加。大徳寺山門の絵を手がけ、
日増しに名声を確かなものにし、長谷川派を形成。
しかし、良き理解者であった千利休が自刃、等伯の
片腕となって制作にあたった息子・久蔵が26歳の
若さで亡くなります。
「志が高い者ほど、遠い苦難の道を歩き続けることが
長谷川等伯。
等伯は、桃山画壇の覇者狩野永徳を脅かすほど
絵師としての成功を治め、自ら「雪舟五代」を
名乗り、長谷川派の長として活躍した画家。
30代で能登から上洛後、戦乱の渦中に巻き込まれ
、様々な人々との縁からその画力が次第に認められ
、永徳らの妨害を受けつつも、狩野派が手がける
聚楽第の襖絵に参加。大徳寺山門の絵を手がけ、
日増しに名声を確かなものにし、長谷川派を形成。
しかし、良き理解者であった千利休が自刃、等伯の
片腕となって制作にあたった息子・久蔵が26歳の
若さで亡くなります。
「志が高い者ほど、遠い苦難の道を歩き続けることが
できる。その先に何が待っているかはわからないが、
歩き続けることこそ人にできる唯一のことなのだ……
絵のために苦しむことができる我が身を悦べばよい。
死んだ者も何もかも引き受けて、捨身の筆をふるえば
いいのである。」
(「等伯」(下)阿部龍太郎)
歩き続けることこそ人にできる唯一のことなのだ……
絵のために苦しむことができる我が身を悦べばよい。
死んだ者も何もかも引き受けて、捨身の筆をふるえば
いいのである。」
(「等伯」(下)阿部龍太郎)
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