『鮭と共に生きてきたまち』

「鮭のまち」として全国的によく知られている越後村上
新潟県村上市)。


この時期、恒例行事である鮭の稚魚放流が、市内を流れる
三面川で行われたそう。

地元の鮭産漁協組合が育てた体長7㎝ほどで体重1.5g、
体長6~8センチの稚魚
5万匹を知事や小学生など200人
が放流。
















放流式に参加した市内の子どもたちは、稚魚の入ったバケツ
を大事そうに抱え、水際では「元気でね!」「また戻ってきて
ね!」
などと声をかけながら、優しく放流したとか。

ちなみに稚魚の耳石にしるしを付けているので、世界の
どこで獲れても村上の鮭だとわかる
そうです。

私は5年ほど前の夏に家族で越後村上を訪れました。
宿泊したホテルの玄関上には鮭が干してあり、街中の
あちこちに食用の売り物や鮭関連の土産物を見かけ
ました。

土地の人によると、鮭は川に登って産卵し、孵化した
稚魚は翌春に川を下って大海に出て、3~5年と
北洋の荒波の中をまわって成魚となり、再び生まれ
故郷の水を飲み分け、ふる里の川に戻ってきて産卵

するという習性があるそうです。

越後村上と鮭の関係は古く、平安時代中期に編纂
された「延喜式」には、越後国から朝廷へ鮭を献上
していた記録があり、村上の鮭も含まれていたと
言われています。

「但於瀬波河者 有限国領也 就中漁鮭為重色
済物 庄家不可成妨」
(三面川は国の持ち物である。鮭は都への大切な
貢ぎ物あるので、土地の役人であっても勝手にとって
はならない。)


江戸時代、藩の下級武士であった青砥武平次
世界ではじめて鮭の「回帰性」(鮭が生まれた川に
戻ってくる)
を発見。
武平次は、その性質を生かして三面川で産卵に
適した分流である「種川」を設けて、鮭の産卵

助けました。

この世界で初めての「自然ふ化増殖システム」
より、三面川の鮭の漁獲高は飛躍的に増え、村上
藩の財政は潤った
といいます。
 
明治11年アメリカの孵化技術を取り入れた日本で
初となる人工孵化
に成功。

減少していた鮭の遡上数は、明治17年に737,378
尾を記録
するまでに増えました。(単一河川では
日本の最高記録)

そして、その収益金の一部を育英基金として、
士族たちの子弟教育
に使い、多くの人材を世に
送り出しており。この育英制度で進学した人たちは
、地元で「鮭の子」と呼ばれたそうです。
村上市は鮭一人当たりの消費量で日本一を誇り、
百を超える多彩な料理法で、鮭を頭から尻尾まで
あますことなく味わうことができます。

村上に在中、鮭をこよなく愛する人々の昔からの
知恵と工夫
が生きた郷土料理を堪能できました。




 

”人と自然を調和しながら『持続可能な未来』を共創する”