二宮尊徳の言葉に『父母もその父母もわが身なり われを愛せよわれを敬せよ』とある。
「あなたの身体の中には幾百万、幾千万という先祖の連綿たる命の炎が燃えている。
「あなたの身体の中には幾百万、幾千万という先祖の連綿たる命の炎が燃えている。
その命の炎が一度も途切れることなく続いてきたからこそ、あなたの「命」がある」
2011年3月11日、東日本大震災を体験し、こうして年を重ねられることに深く感謝している。
私はこれまでの人生で幾度か危険な目に遭ってきた。
生まれてすぐの酸素吸入、幼稚園の時の交通事故、30代での屋久島登山時、森林間伐時、等。
思い出すだけで何回かある。
今まで無事に生きてこれたことは、決して当たり前ではないと思う。
人生を必死に生きることのを大切さを身を持って教えてくれた父。
何があろうとも、常に励まし温かい気持ちで包んでくれた母。
家族の有り難さ、大切さをいつも教えてくれる妻と息子。
周りの方たちからの大きな愛情に包まれてこそ、こうして生きていられる。
生まれてすぐの酸素吸入、幼稚園の時の交通事故、30代での屋久島登山時、森林間伐時、等。
思い出すだけで何回かある。
今まで無事に生きてこれたことは、決して当たり前ではないと思う。
人生を必死に生きることのを大切さを身を持って教えてくれた父。
何があろうとも、常に励まし温かい気持ちで包んでくれた母。
家族の有り難さ、大切さをいつも教えてくれる妻と息子。
周りの方たちからの大きな愛情に包まれてこそ、こうして生きていられる。
本当に心から感謝したい。
以前、実家へ帰省した時のこと。書棚の整理をしていると、私が生まれたとき
の育児記録を見つけた。初めて見るものだった。
中を開くと、万葉集に収められている山上憶良の歌が書かれていた。
『銀(しろがね)も金(くがね)も玉も
何せむに まされる宝子にしかめやも』
その横には、”命名”という題が書かれ、生後まもない私の写真が貼られていた。
命名者に父、命名日、命名の由来が書かれている。
『お兄ちゃんがおばあちゃんの幸をもらったので、和ちゃんにも幸をもらい、
の育児記録を見つけた。初めて見るものだった。
中を開くと、万葉集に収められている山上憶良の歌が書かれていた。
『銀(しろがね)も金(くがね)も玉も
何せむに まされる宝子にしかめやも』
その横には、”命名”という題が書かれ、生後まもない私の写真が貼られていた。
命名者に父、命名日、命名の由来が書かれている。
『お兄ちゃんがおばあちゃんの幸をもらったので、和ちゃんにも幸をもらい、
パパが「和を持って幸いあれ」と願ってつけてくれました』
生誕時、体重が4,550グラムあり、産婦人科医院始まって以来の大きな赤ちゃんだった。
臍ノ緒が首に巻きついていたため酸素吸入された。
当時、父は27歳、母は23歳。上の兄はまだ1歳10ヶ月だった。
当時の家の状態という頁には、こう書かれていた。
『和ちゃん これから貴男の事をママは和ちゃんて呼びます。
ハイって元気な声がハネ帰ってくるのは、まだ先の事になるでしょうけどね。
今ね和ちゃんのパパのお仕事はとっても朝の早い仕事なの。
だから出張が多いの。ママとお兄ちゃんは淋しいけどがまんしているの。
生活のためなのよ。何事もそしてあなた達を幸せにしようとパパは張り切っているのよ。だから出張が多いの。あなたにも今に大きくなって一人前になるとその事がきっと分かるでしょう。
そしてあなたの奥様になる人にも今のママの気持ち分かるでしょう。だから今はママとお兄ちゃんとあなたと3人でパパのいないこの家を守りましょう。
あなたのパパはものすごく理解のある人です。そして勇気のある人なのです。』
出産後の記録、8日目に退院し、12日目~21日目の間父が出張とある。
12日目
『パパ出張に行く。お兄ちゃんがむずかる。和ちゃんも泣き出す。ママも泣いてしまいました。』
16日目
『あまりおっぱいをのまない。いつも60~80くらい。生まれの割合に少ない』
21日目
『今日から床を上げる。普通の仕事をする。でも腰が痛む。パパ出張より帰宅する。
和ちゃん大きくなったって。』
12日目
『パパ出張に行く。お兄ちゃんがむずかる。和ちゃんも泣き出す。ママも泣いてしまいました。』
16日目
『あまりおっぱいをのまない。いつも60~80くらい。生まれの割合に少ない』
21日目
『今日から床を上げる。普通の仕事をする。でも腰が痛む。パパ出張より帰宅する。
和ちゃん大きくなったって。』
父は75歳を超えた。裸一貫で苦労しながら事業を起こし、幾多の苦労を乗り切りながら、
家族の幸せを常に願い精一杯働き続けてきた。
私が環境問題に関心を持ち、取り組むようになった原点。それは父の事業にある。昭和30年代当時、社会で問題になっていた公害処理問題。
発酵処理の技術開発に全身全霊で取り組んできた。
70歳を節目として、経営の第一線から引退した。これまで二度、心筋梗塞の手術をしている。
いつまでも元気でいてほしい。
母は、今年で71歳になる。文字通りワンマンで厳しい父を支えてきたことは、
本当に大変であっただろう。人として恥じない生き方を説き、どんな時でも
常に息子の応援をし続けてくれている。
大学卒業後、SEとして勤めていた会社を辞め、自然環境保全の道を志すことを告げた私を
励ましてくれた母。
その後、縁あって勤めることとなった会社のことを話し、派遣契約で時給からの出発となる
本当に大変であっただろう。人として恥じない生き方を説き、どんな時でも
常に息子の応援をし続けてくれている。
大学卒業後、SEとして勤めていた会社を辞め、自然環境保全の道を志すことを告げた私を
励ましてくれた母。
その後、縁あって勤めることとなった会社のことを話し、派遣契約で時給からの出発となる
ことを伝えた。すると母は私にこう諭した。
『お金は後からついてくるものだよ。与えられた仕事を精いっぱいにやることが、何よりも大切。その中で周りや他の人たちからの信頼を得ていくことができていけば、お金は後からついてくるものだよ』
母のこの言葉を胸に刻み、私は与えられた生物多様性保全の仕事を10年間、一所懸命勤めてきた。
その間、後押しをしてくれる本部長(当時)や周囲に恵まれ、会社の内外から高い評価をいただく
ことができ、プロパーとなり、最後は専門課長職シニアスペシャリストという職務で終えることが
できた。
毎年いつも頂戴している新年の指針がある。
今年の指針には、こう書かれていた。
『生かされているという事実、生きているという喜び、
神様は生命の尊さをあらゆる事を通して教えてくださる』
家族や周りの方々に素敵なご縁を頂き、支えられてきた中で、まさしく生かされているという事実、
生きているという喜びを理解できる。
この世に生まれてきた目的と自分の役割を理解しながら、果たせるように生きていきたい。
2012年から私は独立し、フリーエージェントとなった。言葉は格好いいが、かつての父と同様に
今年の指針には、こう書かれていた。
『生かされているという事実、生きているという喜び、
神様は生命の尊さをあらゆる事を通して教えてくださる』
家族や周りの方々に素敵なご縁を頂き、支えられてきた中で、まさしく生かされているという事実、
生きているという喜びを理解できる。
この世に生まれてきた目的と自分の役割を理解しながら、果たせるように生きていきたい。
2012年から私は独立し、フリーエージェントとなった。言葉は格好いいが、かつての父と同様に
社会をより良くしていこうと裸一貫での始まりだ。
『Cremony』という名前の元に、真善美を追求し、他の生命と共に共創しながら、愛ある世界を調和して動いていく。
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