『いまここに生きる価値を大切にする』

私が環境問題に関心を持ち、取り組むようになった原点。

昭和40年代当時、社会で問題になっていた畜産廃棄物の

公害処理に対して、実父が発酵利用によるコンポスト化

(堆肥)処理の技術開発に取り組んでいた

私はそれを間近で見聞きしていた。

土壌や水質の汚染を引き起こしていた廃棄物が、

微生物による発酵活動により、良質の土壌につながる

有機堆肥へと変身することを体感したことの驚きと感動

自然本来の循環の有り難さを学ぶことができた

中学、高校、大学の時代、春休みと夏休みになると

アルバイト代稼ぎに、父の会社の工場で働いた。

発酵処理機械の部品加工、組立て、塗装補助や、

畜産農家の現場へ行き、機械修理の手伝いなども行った。


しかし、生意気な10代であった私には、環境問題の

解決だとかはあまりピンと来ず、畜産農家の方には

申し訳ないことであったが、排泄物臭気は耐えにくく

感じていた


中学のある日、父が畜産農家の方の所へ行くので、

お前もついてこいという。

搬入した新しいコンポスト機械の性能確認をするらしい。

しばらく工場での作業が続いていたので、たまには

ドライブも悪くないと、仕事の内容をよく理解しないまま

車に同乗した。


畜産農家の方の所で挨拶をして、豚舎の様子を見て、

完成して間もない発酵舎へ向かった。

中に入ると、新型機械が回転レールの上に乗せられて

おり、建物の床には豚舎からスクレーパーで搬送されて

きた排泄物が、山積になっている状態。


外へ聞こえないように小声で「臭い」と悪態をつく私を

背にして、白い長靴を履いた父は自分が開発した

機械の所へ行くと、スイッチをONにした


機械が動きだし撹拌が始まり、有機堆肥化処理

行っている間、父はお客さんと話をしていた。

私は付近をしばらく散策。辺りには田畑が広がって

いた。


戦後、経済成長の時代に入り、都市部周辺に新興

住宅街がどんどん作られていった。

元は農村地帯であったところが、新たに住宅地と

なっていったのだが、全国各地で共通の問題

起きていた。


国民所得が増大していく中で農業の基幹部門となった

畜産業は、昭和40年代に入ると、農村の都市化や

混住化が進み、また家畜の規模が大きくなり、

全国的に畜産経営による土壌や河川の汚染問題

起こしていた。

地域住民の生活環境保全意識が上がり、家畜の増頭に

伴う排泄物による悪臭等、畜産公害の苦情が周辺住民

から多くよせられ、各自治体は頭を悩ましていた

父は当時の仕事で全国各地へ営業に回る中、このような

問題があることを知った。


埼玉に生まれた父は、若い頃丁稚奉公に出て東京で

働いていたことがあった。

五人兄弟の三番目に生まれ、毎日小学校から帰ると

畑で働く母親の手伝いをしていたという。

他の兄弟たちが皆遊びに行く中、自分も行きたいのを

我慢し、少しでも母を楽にさせたいとの思いだった

そんな親思いで真面目な性格の父を丁稚先で
見かけ、感心していた先生がいたという。
その方は、坊主頭の父が働く勤め先の近所に
住んでおり、東京大学の偉い博士であった。

先生は、『岸君、今晩はうちへ夕飯を食べに来なさい』
とよく声をかけて、可愛がってくれた
そうだ。

その後、畜産の環境問題が起きていることを知った

父は、先生のことを思い出した。先生は、畜産廃棄物

の発酵学で当時第一人者の方であったという


暫くぶりに先生と再会できた父は、有機堆肥の
教え
を受けた。そして先生は喜んで研究してきた
ノウハウを全て、父に伝授してくれ
たという。

畜産農家の現場を訪れて、学んだことをどのように

活かすかを考えた父は、ついに発酵処理機械の開発

に成功


自分自身で問題を見つけ出し、それを類型化したり

要素化して、いくつかの段階に分解し、できるところ

から個別に解決していく。

そのことに最後まで諦めず、取り組み続ける
「諦めない人間力」を養っていった父
の姿を見る

ことができる。

暫くして発酵舎に戻ると、父が機械の運転を
止めるところであった。
舎内には、作られたばかりの有機堆肥が拡がって

いたが、最初に匂った臭いは全くなかった


これが発酵ということなのか!?
その時、私の前にいた父は、足元にある堆肥を

一つまみ手にとると、いきなり自分の口の中に入れた


『えっ、さっきまでそれは・・』と愕然とする私に

対し、父はこう言った。

『これなら大丈夫だ。
この分野はこれから成長が見込めて市場性があるから、

どんどん大手企業が参入し始めている。


しかし、自分には自信がある。
大手企業は設計、製造、販売、保守とそれぞれ
のスタッフが分業で仕事をしている。

機械の確認で現場へ来たとしても、今自分が
やったようなことは決してできないだろう。
でも自分にはそれができる。

現場に来て糞に塗れながら、必死でお客さんの
求めることを理解し、様々な微生物の活動による
発酵の新しい技術を常に自分の頭で考え、
機械を改良して提供し、また現場で自ら確認する。

そのことを一所懸命に取り組み続けていけば、
必ず負けないんだ。』

この時に見せられた父の姿。
私は偉大なる山嶺がすぐ傍にあることを悟った
容易には超えられないこの姿に、人が生きること

の厳しさを見せられた。


自分一人の力で会社を立ち上げ、自然界にある

微生物の働きを応用したコンポスト化の技術

開発に取り組み、社会問題の解決に当たってきた父。


ソーシャルビジネスやアントレプレナーシップなど

の言葉が起こる、遥か前から身を張って行動して

きた父であった


経営を続ける中で、何度も厳しい目にあい、
毎晩眠れぬ日々を送ったという。
これまでに二度心臓の手術を乗り越えてきた。


2012年にそれまで勤めていた大手企業を辞めて

独立した私に対して、父は母にこう言ったという。

『男がやるといったからには、きっとやるだろうよ』
それを聞いて、私は泣きたくなるような気持ちに
なった。

強く励まされる言葉を頂き、只々有り難い。
父、母にはこれからの私の生き様を長く見ていて
ほしいと願う。

”人と自然を調和しながら『持続可能な未来』を共創する”