合気道の開祖、植芝盛平翁が若き日に共鳴したのが、
南方熊楠による「神社合祀反対運動」でした。
そして、この運動こそが日本で初めての「ナショナル
トラスト」。
世界的な知の巨人、南方熊楠は、民俗学の分野における
近代日本の先駆者的存在であり、博物学、宗教学の研究
や、植物学、特に「隠花植物」と呼ばれていた菌類・
変形菌類・地衣類・蘚苔類・藻類の日本における初期
の代表的な研究者。
南方熊楠による「神社合祀反対運動」でした。
そして、この運動こそが日本で初めての「ナショナル
トラスト」。
世界的な知の巨人、南方熊楠は、民俗学の分野における
近代日本の先駆者的存在であり、博物学、宗教学の研究
や、植物学、特に「隠花植物」と呼ばれていた菌類・
変形菌類・地衣類・蘚苔類・藻類の日本における初期
の代表的な研究者。
今から100年前に生物どうしのつながりの重要性、
つまり現代の生物多様性の考え方に通じるエコロジー
の思想で神社合祀令に反対し、自然保護運動を
展開しました。
明治政府は、維新の後に国家神道の権威を高めるため、
全国の各集落にある神社を1村1社にまとめ、日本
書紀など古文書に記載された神だけを残す
「神社合祀令」を出します。
その結果、和歌山では3700あった神社が強制的
に600に統合され、三重では5547が942まで激減
したといいます。
しかもこの裏には商売の側面があり、神社の森に
あった樹齢千年という巨木が高値で売られた
といいます。
こうして廃却された境内の森は容赦なく伐採され、
ことごとく金に換えられていきました。
熊楠は“「エコロジー」(生態学)という言葉を
日本で初めて使いました。
生物は互いに繋がっており、目に見えない部分で
全生命が結ばれていると訴え、
生態系を守るという立場から、政府のやり方を
糾弾したのです。
彼はまた、民俗学、宗教学を通して、人間と自然の
関わりを探究しており、人々の生活に密着した
神社の森は、子どもの頃に遊んだり、祭りの思い出が
あったり、ただの木々ではない、鎮守の森の破壊は
心の破壊だと憤慨します。
熊楠は反対の文章の中で、前代未聞のエコロジー
思想を展開しています。
まだ環境問題がほとんど問題でない明治の時代に、
自然生態系のエコロジーを説き、
精神のエコロジーを説き、
社会のエコロジーを説くという、
三つのエコロジーを一体として展開しているのは
とてもなく先進的でした。
鶴見和子さん(社会学者)は、
「熊楠は西洋側の論理をわきまえて、そこから
こっちを逆照射した。
いつでも日本人はこっち側から西洋を見てるの。
だけど南方は逆照射なの。西洋からこっちを見てる」
と高く評価しました。
神道による国家統制は、各地の神社を国家のヒエラル
キーに組み込んでいくものでした。
熊野三社という日本有数の神域に対しても、
明治政府は容赦なく国家神道の論理に組み入れ
ようとしました。
1911年、この反対運動に共鳴した内閣法制局参事官
柳田国男(後に民俗学者)は、熊楠の抗議書を
印刷して識者に配布し、活動を側面から支えました。
柳田は、明治政府の官僚でしたが、地域を支えて
きた自立性が、国家の論理にすり替えられ、
日本人の心を支えている地方固有の伝統
が失われて行くことは、農業の衰退を招くことに
つながるもので、そのことは地方経済の疲弊を
超えて、日本という国家を衰退させるもの
と危惧したのでしょう。
1920年、10年間の抵抗運動がついに実を結び、
国会で「神社合祀無益」の決議が採択
されました。
これ以降、熊楠は貴重な自然を天然記念物に
指定することで確実に保護しようと努めるように
なります。
1929年、昭和天皇が田辺湾沖合いの神島に訪問
した際、熊楠は粘菌や海中生物についての御前
講義を行ない、最後に粘菌標本を天皇に献上
しました。
戦前の天皇は神であったから、献上物は桐の箱など
最高級のものに納められるのが常識でしたが、
熊楠はキャラメルの空箱に入れて献上します。
現場にいた者は全員が固まったそうですが、
そのまま何事もなく無事に収まりました。
側近は『かねてから熊楠は奇人・変人と聞いて
いたので覚悟はしていた』とのこと。
熊楠の飾り気のなさを喜んだ昭和天皇は、粘菌
のお礼に和菓子を熊楠に与えたそうです。
熊楠の妻はそれをつぶして粉にまぜ、さらに
大きなお菓子にして、お世話になった村の人達に
分け与えたそうです。
後に熊楠が他界した時、昭和天皇は
『あのキャラメル箱のインパクトは忘れられない』
と語ったといいます。
1962年、昭和天皇は33年ぶりに和歌山を訪れ、
神島を見てこう詠みます。
『雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし
南方熊楠を思ふ』
熊楠は田辺という紀伊半島南部の小都市に住みながら、
海外の高名な学者とのやりとりや、『ネイチャー』
をはじめ、ロンドンの科学雑誌への投稿を通じて、
常に世界の知的情報の流れとつながっていました。
『ネイチャー』誌に載った南方熊楠の論文は生涯で
51本に上り、これは同誌の歴代の投稿者の中でも
単著としては最高記録であると言われています。
学閥によらない、まさに市井に住む世界の大学者。
後年、柳田国男は「南方熊楠は日本人の可能性
の極限だ」と言いました。
1941年、『天井に紫の花が咲いている』という
言葉を最期に激動の人生を終えます。享年74歳。
粘菌や昆虫など微小なものを徹底して観察した
熊楠は、次のように言いました、
『世界に不要のものなし』。
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