『一生懸命、今を大切に生きる』

『大丈夫、明日はまた、新しい人生が生まれて
くるから』


酒井雄哉師、天台宗の大阿闍梨。
かつて比叡山千日回峰行を二回行った行者さん
として有名です。



1926年に生まれ、太平洋戦争時、予科練へ志願し
特攻隊基地・鹿屋で終戦を迎えます。
戦後はラーメン屋や菓子屋、証券会社代理店など
職を転々としますがうまくいかず、縁あって40歳
のときに得度。

比叡山延暦寺に入り、明治時代に死者が出て以来
中断していた常行三昧という厳しい行を達成


そして約7年かけて約4万キロを歩く荒行
「千日回峰行」
を開始。



(千日回峰行とは不動明王と一体となることを
目指す行。十二年籠山行を終え、百日
回峰行を終えた者の中から、さらに選ばれたもの
だけに許される行


山川草木などあらゆるものに仏の姿を
感じながら礼拝
する。

歩行距離は地球1周分にもなり、
700日を終えると9日間、断食や断水、
不眠、不臥で10万回の不動真言を唱える
「堂入り」の行
に入る。

その後は山中だけでなく、京都市内でも
礼拝する。

















途中で行を続けられなくなったときは
自害する決まり
で、そのために首をつる
ための紐と短刀を常時携行する。

頭にはまだ開いていない蓮の華をかたどった
ヒノキの笠をかぶり、白装束(死に装束)を
まとい、草鞋ばき
といういでたち。

700日目の回峰を終えた日から堂入りが
行なわれ、無動寺谷明王堂で足かけ
九日間にわたる断食断水断眠の行
に入る。

入堂前に行者は生き葬式を行ない、
不動明王の真言を唱え続ける。

出堂すると、行者は生身の不動明王とも
いわれる大阿闍梨となり、信者達の合掌で
迎えられる)


 
酒井師はこの「千日回峰行」を80年、87年の
2度も満行
しています。

60歳という最高齢でやり遂げたもので、
2度の回峰行を達成した行者は1千年を越える
比叡山の歴史の中でもわずか3人しかいない。

『よく、千日回峰行をすると、歩く距離は4万キロ
近いので、「地球一回りしたことになるんですよ」
っていわれるの。

「阿闍梨さんは二度やったから、地球を二回回った
んですね」と。

そういうふうにいわれると、本当に地球を二回、回った
のかなって思うけど、毎日毎日繰り返しているうちに、
気がついたらそんな距離になったというだけのこと
なんだね。

急に2千日歩いたのではなく、毎日毎日の積み重ね
なんだ。

たとえば僕は82歳になる。じゃあ何日生きてきたの
かなと思ってね。

計算してみると、ようやく3万日を少し超えるくらい
だった。80年だっていっても、たったの3万日しか
生きていないんだね。

そう思うと、自分達の命って、本当に短くてはかない
ものだなあと思うよね。』


回峰行中、猪に体当たりされて転んで痛めた
足の指が化膿し、一歩も歩けなくなり、左足の親指
と人差し指を短刀で切ったといいます。

死を覚悟して、短刀をのどに向けて構えながら
失神
していたのに、気がつくと、なぜか
そのままの姿勢でいられたこと。

自分以外の力に生かされていることをつくづく
感じた
とおっしゃっています。



『地球が生まれて四十何億年とかっていうでしょう。

なかなかイメージがわかないほど途方もないけど、
その中の3万日なんていったら、霧や塵までもいかない
、ふっと消えてしまいそうな、かすかなものだよね。

そんな小さな存在なのに、こうして大きな世の中に
送り出していただいたんだから、それこそ地球のため
、みんなのためって考えないといかんなって思うの。

こんな大きな地球だって、あと何億年たったら
大きな流星が来てなくなっちゃうとか、寿命が尽きる
とかいわれている。

こんな小さな存在でも、せっかくこの地球に生を受けた
んだから、地球の命がある間に、みんなが楽しく生きて
いく方法を考えたいと思うんだ。

一つひとつの命は小さくても、みんなで心を一つにして
考えることができたら、やがては大きな力になるん
じゃないのかなあって。

80年といっても、地球の命に比べたらほんのはかない
もの。

八十何年生きたからどうの、これまで何をしてきました
等ではなく、大事なのは「いま」。そして「これから」
なんだ。

いつだって、「いま」何をしてるのか、「これから」
何をするかが大切なんだよ。』




『朝起きて、空気を吸って、今日も目が覚めた
なあってときにね、さあ何をするかなって思って、
起き上がらなくちゃ。

それが今を生きているっていうことと違うかな。
たとえば、若くして亡くなった人の悲しい話を聞く。

だけど、その人が一生懸命生きて、世の中の人たち
になるほどなあ、っていうような何かを残して
亡くなったのであれば、それは素晴らしい。
 
大きな存在から見れば、10年も80年もそれほど
違いはないのかもしれないよ。

だからこそ、何のために生きているのか、何をやって
生きているのか。

今なんのためにこの場所にいるのか。今何のために
息をしているのか、ということを一生懸命考えなく
ては。とても無駄なことはできない。

だって、だれにとっても、人生はほんのわずかな
時間なんだよ。

一生懸命、今を大切にして、今をがんばらなかったら
いけないのとちがうかな。』
(一日一生)


回峰行という荒行の日々の中で得た「生きる」という
ことの意味を、酒井師は私たちにわかりやすく
問いかけます。

そして優しくこう励ましてくれます。
『大丈夫、明日はまた、新しい人生が生まれてくるから』


”人と自然を調和しながら『持続可能な未来』を共創する”