『時流に乗らない生き方』

『そんな甘さで、今後、時代の大暴風のなかで
藩の舵が取ってゆけるものか。

たとえば、こういうことだ。
藩のためにもなり、天下のためにもよく、天朝も
喜び、幕府も笑い、領民も泣かさず、親にも孝に、
女にももてる、というような馬鹿なゆきかたが
あるはずもない。

何事かをするということは、結局はなにかに害を
与えるということだ。何者かに害を与える勇気の
ないものに善事ができるはずがない。』





敬愛する司馬遼太郎氏「峠」を読み返し、
越後長岡藩家老であった河井継之助の生き方
に、人間として大事なものを見せられました。

「峠」(司馬遼太郎著)

幕末、江戸に出府した河井継之助は、詩文、
洋学など単なる知識を得るための勉学は
一切せず、歴史や世界の動きなど、
ものごとの原理を知ろうと努めた


備中松山の藩財政を立て直した山田方谷の
もとへ留学するため、旅に出る。

旅から帰った河井は、長岡藩に戻って重職に
就き、ガトリング銃を購入して富国強兵に
努めるなど藩政改革に乗り出す…。



「河合継之助のような人間を持ったことは、
はたして藩にとって幸か不幸か…」


幾度となく、本作の登場人物が口にする危惧は
、河合が多くの矛盾を抱えながら家老まで務めた
ことへの懸念でもある。

福沢諭吉に勝るとも劣らない開明論者で
ありながら、北陸の小藩に過ぎない長岡藩を
「永世中立国」にしようとした男


そして、「志の高低が人の価値を決める」
「幕府が勝っても薩長が勝っても武士の時代は
終わる」
と先見の明を持っていながら、
薩長軍(西軍)との戦いでは、長岡城の落城を
許し、敗走の末、42歳で没した。

この日本においては時流が一度大きく
うねり出したら、もう誰も歯向えないような
力が働きます


何か事件が起きて、テレビ、新聞、雑誌という
メディアにより加熱されていく中では、少数の
意見は極力無視されます。

多くの場合、生贄が生まれ、執拗なバッシング
が繰り返されます。

だから時流のうねりの前に立ち止まり、
その流れと自分との距離を冷静に眺める
こと
はこの国では大変なことです。



「時流はこうだから」「時代がそうだから」
「世間はこうだから」「周りがそうだから」
・・・しかたがない
となりがちです。

「自分はこう思うのだが世間がね」という
のは、日本人にありふれた身の処し方ですが、
そこには自律も何もありません。

寄らば大樹の陰という生き方。

「心の教育」や「個性の大切さ」が言われて
いますが、「時流に乗らない」ことこそ
まず第一
と教えるべきではないでしょうか。

そうでないと日本人はモラルも倫理も
自己判断も、とことんのところでは「いらない」

ということになってしまいます。

河井継之助は時流に乗らない生き方が
できた人
だったと司馬さんは言いました。

『皆が一つ思想で傾斜している。
酔っぱらっている。

一緒に酔っぱらえばこれほど楽なことはないが、
自分だけが酔わず、醒めつづけているとなれば、
これは命がけのことだ』


『皆が右に行くから自分たちもでは、
自分の名が廃る。
「自ら省みてなおくんば千万人といえども
吾がゆかん」



『よろしく公論を百年の後に俟って玉砕せん
のみ』(どっちに正義があるかは百年後の人々
の判断に任せればよい。今は名を惜しんでは
ならない。命を捨て、名を取ろう)


時流が沸騰しているとき、ひとり我が道を行く
のは至難です。

それでも尚、自分の信ずるところを進むのは
「今の自分」を「のちの自分」が見て恥ずかしい
と思わないよう生きたいという事


司馬さんは「日本の歴史に河井継之助がいて
よかった」
と講演などでよく言いました。

徳富蘇峰は、以下のように継之助を高く
評価。

『継之助は、西郷隆盛と大久保利通と木戸孝允を
足したより大きいとは言えないが、彼らを足して
3で割ったよりも大きかった』


『人というものが世にあるうち、もっとも大切
なのは出処進退の四字でございます。

そのうち進むと出づるは人の助けを要さねばならない
が、処ると退くは、人の力をかりずともよく、自分で
できるもの。

拙者が今大役を断ったのは退いて野におる、という
ことで自ら決すべきことでござる。

天地に恥ずるところなし。』
(河井継之助の言葉)


後世の日本人の一人として振り返って、あの時代、
時流に尻尾をふる日本人ばかりであったら
やりきれませんが、継之助がいたことで、
日本人の心映えがわずかに守られました


”人と自然を調和しながら『持続可能な未来』を共創する”