『レーゾンデートル』という言葉。
フランス語で、『存在理由』という意味です。
内務大臣、外務大臣、東京市長等を歴任し、行革と
都市政策の先駆者としての功績で名を残しています
が、人を残すことを自分の一番の存在理由とした
後藤新平翁に強く惹かれます。
フランス語で、『存在理由』という意味です。
内務大臣、外務大臣、東京市長等を歴任し、行革と
都市政策の先駆者としての功績で名を残しています
が、人を残すことを自分の一番の存在理由とした
後藤新平翁に強く惹かれます。
「妄想するよりは活動せよ。
疑惑するよりは活動せよ。
話説するよりは活動せよ。」
漢学、近代科学、そして西洋哲学・政治学。
それぞれが異質なものであり、かつ、かなりの広さの
学問的教養を後藤新平翁は有していました。
この広範なベースがあったからこそ、台湾での植民地経営
の際には、農業、工業、など諸分野の優秀な人材を抜擢・
登用し、任せることが可能であったに違いないと思います。
また、都市計画を考える際に、科学的分析と社会学的
考察の両方の視点を持ち、機能的かつ美しい都市を
長い時間軸で作るという発想も得たのでしょう。
後藤新平翁が遺した言葉に、
『財を残すは下。されど財なくんば事業保ち難く。
事業を残すは中。事業なくんば人育ち難し。
人を残すは上なり』
があります。
後藤翁は、元々が医者でした。
そのことから、医薬産業に携わる実業家を育てています。
星一が、星製薬株式会社を設立するのを支援し
、漢方薬の津村順天堂(現ツムラ)の創業者、
津村重舎を可愛がりました。
『人のお世話にならぬよう、人のお世話をするように
そして、報いを求めぬよう』
虎ノ門事件の責任を取らされ内務省を辞めた後、
読売新聞の再建を頼まれた正力松太郎を
支援したのも、後藤翁でした。
正力に『10万円(今なら数億円)貸してほしい』
とお願いされた、後藤翁は『新聞経営は難しいと聞いている。
失敗しても未練を残すなよ。金は返す必要はない』
と言って、10万円をポンと貸しました。
当時、正力は政治家のことだから、どこかから都合したの
だろうと思ったそうです。
しかし、後藤翁の死後、実は後藤翁が自宅を
抵当に入れ、無理して借金をしたお金であることを
長男から聞かされて知ることになり、正力は号泣した
といいます。
関東大震災後の帝都建設の百年先を洞察する大見識
は、年を経れば経るほど真価を高めています。
また、日本ボーイスカウトの初代総長となって
、少年たちを指導しました。スカウト運動の普及のために
自ら10万円の大金を日本連盟に寄付し、さらに全国巡回
講演会を数多く実施。
制服姿の後藤翁が集会に現れると、彼を慕うスカウトたち
から『僕等の好きな総長は、白いお髭に鼻眼鏡、団服
つけて杖もって、いつも元気でニコニコ』と歌声が
上がりました。
昭和4年(1929年)4月13日波瀾に富んだ生涯を
73歳で閉じます。
ビジョンを明確にして、その遂行のために
有能な人材を集め、仕事を通して育て上げる。
混迷する現代社会において、後藤翁の見事な生き方は
指導者に対する一つの指針を示しています。
『人は無限大に能力を発揮する可能性を秘めている。
だからこそ最大の経済対策は人を育てることである。』
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