何年前のことだろうか、ある時、本屋で手にした雑誌に、ミチオさんの
未発表モノクロ写真が載っているのを見つけた。
それは、カラー写真では何度も目にしていたカナダ・クイーンシャーロット島の写真だった。
朽ちていくトーテムポールが悠久という長い時間によって、
ゆっくりと背景の森の一部になっていく姿が写し出されていた。
写真からは、とても深い闇とそれをとりまく静かで ゆったりした時間を感じることができた。
写真と一緒に、ミチオさんが友人に贈った文章も載せられていた。
友人に子どもが誕生したことを祝福するその文章には、家庭を持つことの
大切さが書かれていた。
手紙を書いてからしばらく後、友人にミチオさんはうれしいニュースを送った。
結婚して、子どもがもうじきできるという喜びを。
「ああ、あと数週間で父親になれるなんて信じられません。
大丈夫かなあ・・・まあ何とかなるでしょう」
人間としての暖かさが文面いっぱいに感じられる文章。この本を手にした当時、私は2度目の学生生活を送っていた。
自分がこれから生きる道は、傷つき病んだ自然環境をケアしていくことと決め、
会社を辞めて実践を学び始めているころであった。
人生のある時期、人は誰しも挫折を経験する。様々な辛いことが重なって、
一時期自己否定のきわみに陥っていた時があった。
気がつけば自然な場所に行き、目の前にある自然をみつめては心を楽にしていた。繰り返しながら、自分を見つめ直し、これからの人生を模索していたある時の事。
屋久島を一人旅し、ある山に登りあやうくそこで遭難しかけた。 そして、
その時が現在の自分につながる大きな示唆示唆を得られた。
失っていたかもしれない自分の命があることに、深い感謝を覚えた。
周囲の自然に深い畏敬の念を感じ、目の前にある森の木々の息吹、
周囲の自然に深い畏敬の念を感じ、目の前にある森の木々の息吹、
聞こえてくる鳥のさえずり、静かな渓流の音、そうしたものに
様々な生命を感じることができた。
それは、空気と水と土から恵みを受けて、生命は生かされているという
実感をはじめて持てたときでもあった。
たとえ小さくても大事な生命。一度生命を得たならば、どんなに小さくても生きねば。
他の命も全て貴い、どんなに姿が小さくても醜くても命は同じなのだと。
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