効率と豊かさを追求してきた20世紀の人間社会は、
地球環境に大きな負荷をかけてきた。
その結果、地球各地で環境は破壊され、自然生態系
の劣化が進んでいる。
地球環境に大きな負荷をかけてきた。
その結果、地球各地で環境は破壊され、自然生態系
の劣化が進んでいる。
日本を含む先進国が追い求めてきた経済成長は、
物質的な豊かさを社会にもたらしてきた。
しかし、その繁栄は一部の国が謳歌するものとなり、
途上国は富の分配で差をつけられ疲弊してきた。
持つものと持たざるものに分けられた、トレード
オフの世界。
この構図は先進国内でも同様。
職につけない若年層が増え、高齢化が進む社会
の担い手は、未来に希望を持てていない。
内橋克人氏(経済評論家)は言います。
「長い時間、私たちは経済成長を追い求めて
きました。
しかし、同時に成長にともなう「うしろめたさ」
から自由ではありえなかったのではないでしょう
か。
経済成長は、地球資源と人の浪費を伴うこと
なしには達成不能だという思い込みが、
日本に限らず、20世紀世界を支配してきた
からです。
そして、それはまぎれもない現実でした。
また、同時にその道は貧しい国から富める国へと
資源、マネーを移し植える過程でもありました。
国と国との格差は否応なく拡大し、経済成長を
求めて「浪費こそが美徳であり価値だ」と人びとは
思い込むよう強制されもしました。
そのような20世紀を支配したのは「見えないモノ
は存在しない」という確信に満ちたトリックの政治
と経済だったのです。
公害もゴミも、この世の厄介もの、迷惑ものは
すべて「見えない」ように隠蔽することで済まそう
と躍起だった。
これが過ぐる20世紀の実像だったのです。
バブル崩壊後、なぜ私たちの必死の努力が
それにふさわしい実りを生むことがなかったのか、
なぜ成果でなく労苦がいや増すばかりの改革
であったのか、いまや猜疑の眼を為政者に
向けない日本人は少なくないことでしょう。
なぜ私たちはむなしい「徒労の経済」のなかに
足をすくわれてしまったのでしょうか。
90年代から21世紀初頭にかけ、私たちの社会
はすでに過去の風景へと通り過ぎた幻影を
追って、まさに後ろ向きの営為を積み重ねた
に過ぎなかったこと、次第に明らかになっている
のです。
景気対策といい、国民負担といい、過去の夢、
戻るはずもない仮想の経済大国の復活へ
向けて、資源にとどまらず、国民精神まで総動
員して、必死の形相で入れ込んだということ
でした。
いま私たちはこの壮大な「世紀のトリック」を
見抜き、「巧妙なレトリック」からも脱出
しなければならない。それが可能なときが
きているのだと思います。
従来概念における「経済成長」ではない、
ましてGDPの量的拡張をもってする「成長」
の計量評価尺度とも違う。
真の「成長」とは、人間生存の基盤をより強靭
なものとする条件の前進、そして充実のことを
いっているのです。
過ぎ去ったものに未練を残し、間違った方向を
目指すとき、前途に立ちはだかるのは悲観材
料ばかりです。
しかし、あるべき正しい方向にめざめ、あるべき
ゴールをめざすならば、私たちは確実に明るい
未来へ、と近づきつつある自分の姿を発見する
ことができます。
はすでに過去の風景へと通り過ぎた幻影を
追って、まさに後ろ向きの営為を積み重ねた
に過ぎなかったこと、次第に明らかになっている
のです。
景気対策といい、国民負担といい、過去の夢、
戻るはずもない仮想の経済大国の復活へ
向けて、資源にとどまらず、国民精神まで総動
員して、必死の形相で入れ込んだということ
でした。
いま私たちはこの壮大な「世紀のトリック」を
見抜き、「巧妙なレトリック」からも脱出
しなければならない。それが可能なときが
きているのだと思います。
従来概念における「経済成長」ではない、
ましてGDPの量的拡張をもってする「成長」
の計量評価尺度とも違う。
真の「成長」とは、人間生存の基盤をより強靭
なものとする条件の前進、そして充実のことを
いっているのです。
過ぎ去ったものに未練を残し、間違った方向を
目指すとき、前途に立ちはだかるのは悲観材
料ばかりです。
しかし、あるべき正しい方向にめざめ、あるべき
ゴールをめざすならば、私たちは確実に明るい
未来へ、と近づきつつある自分の姿を発見する
ことができます。
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