近代資本主義は常に目先の利益を追い求め、
それが終わりなき国家競争や企業競争を
煽ってきました。
経済成長の裏で、競争社会、弱肉強食、
マネー優先、格差拡大、貧困連鎖などが
生み出され、社会に矛盾や亀裂がもたらされて
きた現実。
それが終わりなき国家競争や企業競争を
煽ってきました。
経済成長の裏で、競争社会、弱肉強食、
マネー優先、格差拡大、貧困連鎖などが
生み出され、社会に矛盾や亀裂がもたらされて
きた現実。
人間の持つ自己利益の追及によるマネーゲーム
や市場取引は、「弱者や欠陥者を閉じ込めること
で、都市や資本主義は発達してきた」と
ミッシェル・フーコーが指摘した通り。
人間性の入り込む余地のない、損得、リスクが
口を開けた社会は、少数の強きものと多数の弱き
ものとを分けています。
大概の人々は、強きものに自分も入りたがります。
人の集まりである企業もそう。
弱きものへの軽視が蔓延っています。
そのことに早くから気づき、強きものと弱きものとを
分ける社会に対し、障害者の社会参加を積極的に
進め、健常者と同様に自分で稼いだお金で自立して
生活を楽しみ、社会参画を行えるように取り組んだ
一人の経営者がいました。
オムロンの創業者、立石一真氏。
立石氏は、ATMや自動改札機を独自に開発
したことで有名です。
創業時に極貧の中で妻を亡くし、七人の子ども
を育て上げました。
30代で母を、40代で父を亡くし、親を喜ばせる
ことが最後までできなかったことを深く悔いていた
といいます。
そして自分にできることは何かを問い、
「両親の代わりに他人を喜ばせたい、
人の喜ぶ顔を見たい、役立つことをして
幸せになってもらいたい、それでこそ
納得できるし、自分も幸せといえるのでは
ないか」と考えます。
1933年、33歳の時「立石電機製作所」(現オムロン)
を創業。
1940年、東大航空研究所からマイクロスイッチ
国産化の依頼があり、研究を重ねて製品化に
成功します。
『世の中Badと決めつけるのはたやすい。
しかし、Need Improvement(改善の余地あり)
でなければ、創造の将来はない。
「まずやってみる」がわれわれが築き上げてきた
企業文化なのだ』
難しいと思うことにできませんと言うのは安易
ですが、どうすればできるかを考え抜いてこそ
頭は鍛えられ、人間は成長するという立石氏
の姿勢は終生変わらなかったといいます。
オートメーション市場の開発に取り組む中、
「毅然たる経営方針」を模索。
1956年、経済同友会で「経営者の社会的責任
とその実践」を研究し、「企業は利潤追求のため
のみにあるのではない、社会に奉仕するため
に存在する」と結論しました。
立石氏はまた情の人でありました。
「身障者が働ける工場をつくってほしい」と
いう訴えに応えて、「オムロン京都太陽」を設立。
後に多くの企業が福祉工場を建設する中での
先駆けとなります。
「人間が恩恵を受け、そして拝んでいる太陽の
ようになってほしい」との願いを込め、作家の
水上勉さんが、社名を付けました。
数年経った頃、水上さんは『京都にも一粒の麦
がようやく蒔かれた。ぜひ立派に育ててほしい。
この地域に根付かせてほしい』と関係者に
語ったそうです。
サリドマイド障害児が学齢期を迎えた頃、京都
ライオンズクラブが「サリドマイド児に手を与える
運動」を通して、立石氏に義手の開発を頼んで
きました。
徳島大学医学部整形外科と協力して研究し、
一年後開発に成功。
初めて、電動義手をつけたこずえちゃんという
障害児が、義手の指先に握ったチョークで
黒板に字や図形を書いたところを見て、
立石さんは技術者として経営者として、この
テーマに携わったことに誇りと満足を覚えました。
『当時あった西ドイツ式の義手は空気動作式で、
重いボンベを腰につけて携帯しなければ
ならないので、幼児にとっては大変な重荷で
あった。
そこでわれわれは電動機式を採用して、
腕の関節を動かすことにし、その指先の感触
を肩で感じ取れるようにした。
指先に力が入ると、そこのマイクロ・モーター
の電流が変化するので、それを増幅して、
肩先に当てた電磁石の強さの変化として
生体で感じ取れるものである。
義手が完成し、こずえちゃんの肩に装備した。
彼女は訓練の効あって、さっそく指先で
白墨をもって黒板に字を書くことができた。
それを見守っていた母親が、思わず
”手ができた”と叫んだという。
この感激の場面に立ち会った我が社の所長
以下の面々ももらい泣きしたと後で述懐した
ほどであった』
(引用「むつみ随想:幸福への道」)
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