『まず人となること。学問は第二と存じ候』

2013年、横浜市で第5回アフリカ開発会議
開催され、その機会に第2回野口英世アフリカ賞
の授賞式が行われます。

この賞は、アフリカで黄熱病の研究中に殉職した
野口博士の志
を引き継ぎ、アフリカでの医学研究
・医療活動に顕著な功績を挙げた方々を顕彰し、
人類の繁栄と世界平和に貢献する事を目的
に、
日本政府が設立したもの。
第1回野口英世アフリカ賞


「志を得ざれば再び此の地を踏まず」
 

野口英世博士上京する際、生家の柱に刻んだ
言葉
です。

わずか一歳の時、囲炉裏に落ち左手に大やけど
をして、障害を負ってしまった野口博士。

15歳の時、医師渡部鼎先生の手術を受けて医学
の素晴らしさを知り、その道を志し、母シカの大い
なる愛情の元、医師を目指し勉学に励み
ました。

21歳の時、多くの人々に支えられて世界へ
羽ばたき、天性の忍耐力で世界的に名声を上げ
、日本が世界に誇る医学者
となります。


野口博士はずばぬけて頭が良く、一度辞書を
見たらすぐに覚えてしまい、もう一度見返す
必要も無かった
そうです。

その博士にとって、世界は小さかったのです
ね。

非常に頭が良くて、常に先が見えている中で
、日本にいたら自分の所へ渡米の順番が
回ってこないと感じた博士。

恩師など多くの人々の支援を受けて、1900年
に米国へ旅立ち
、世界各地で活躍するように
なります。

そして晩年ガーナに渡り、黄熱病の研究に身
を捧げました。


当時アフリカにおける感染症の研究は大変
危険
であり、研究中に感染症により命を
落としてしまう研究者も多数いました。

当然野口博士がアフリカへ渡る際、周りの
人々は身を案じて反対
します。

しかし、当時世界で猛威を奮っていた黄熱病
の原因を解明すべく、博士はアフリカへ旅立ち
ます。

現場主義者であった博士は、まわりの研究者
達が 「標本だけ持ち帰って研究すればいい
じゃないか」
という中、 現地に赴いて研究し
解明したいと考えたのです。 


命を惜しまず、常に命がけで研究に取り組
んだといいます。そして黄熱病のため、
1928年51歳で亡くなります


博士が勤めていたロックフェラー研究所
博士を厚遇していましたが、特別にウッド
ローン墓地に埋葬しました。
(この墓地で埋葬された日本人は、博士と
高峰譲吉氏のみ) 

博士の死後、妻のメリー夫人には恩給が
支給され、亡くなるまでロックフェラー財団
が面倒をみ、メリー夫人はそこから博士の
実家へ送金した
といいます。

財団がどれほど博士を重要視していたか
がわかります。


かくいう私は、野口博士が亡くなった地、
ガーナを2003年に訪れました。

勤めていた企業で開始した熱帯林の回復
プロジェクト
視察で、初めてアフリカを訪問。
渡航前には黄熱病の予防注射を打ちました。

その後2007年現地へ二度目の訪問。
地元では有機カカオの生産者たちと、森林
保全と地元の経済振興を両立させる
すばらしい協働
ができました。

逆境に負けず、新しい事に挑戦し続けた
野口博士に、多くの人々が愛情を与えました。

博士の才能に引かれ、その人となりに
魅せられ未来を託していた
のでしょう。

「小生日頃の心がけはまず人となること。
学問は第二と存じ候。」
 


”人と自然を調和しながら『持続可能な未来』を共創する”