『政界という泥沼に咲いた一輪の蓮の花』

「政治家の秘訣は何もない。
ただ、「誠心誠意」の四文字ばかりだ。」
 

幕末の偉人、勝海舟が語った言葉。

 













長峯基先生は
現在、宮崎県都城市で長峯学園
さくら幼稚園理事長
をされ、子どもたちの成長を
日々温かく見守られています。

長峯先生は子どものころ、祖父から三つの聖職
あることを聞かされていました。

「都城市の助役をしていた祖父、長峯才九郎が
いつも言っていた。

世の中には三つ尊い聖職がある。
一つは医者。医者は尊い人の命を救う。

もう一つは教育者。
教育者は人の魂を作る。

そして残りの一つは政治家だ。
政治家は困っている人に救いの手を
差しのべるのだ、と。

祖父が忙しくしていつも家にいなかったのは、
人々にお世話をするために走り回っていたからだ。」
 















医者を志した青年時代、長峯先生は肺結核に
かかり療養を余儀なくされ、当初の目標を
あきらめざるを得なくなりました。

昭和40年、福岡大学薬学部を卒業し、
薬剤師として人生が始まります。

就職した製薬会社では全国一の売り上げを
達成
し、その方法を伝授するほどになります
が、人生を一営業マンで終わる気には
なれなかったといいます。

そこで将来国会議員に出馬することを目指し、
宮崎県都城保健所に入ります。
ここで人脈をつくり、まず県会議員を目指しました。

昭和54年、38歳のときに初当選し、四期十六年、
宮崎県議会副議長などの経験を経て、平成7年、
自民党選出の参議院議員となります。

長峯先生はかつて参議院議員をされていた時に、
薬害エイズ問題追及の急先鋒となりました。
(詳しくは、神渡良平先生著「安岡正篤 立命の道」
書かれており、以下一部を引用させていただきます)


”血液製剤のことは専門家でないとわからないため、
薬剤師でもあり薬務行政の内情に詳しい長峯さん
は、厚生省の薬務行政を質します。

「薬害エイズ問題は製薬の承認と天下りの悪弊に
絞ることができます。

医薬品の承認審査は厚生省の中央薬事審議会
で行われます。

問題なのは中央薬事審議会の委員でもある
大学教授が、製薬メーカーの依頼で新薬の
臨床試験も担当していることです。」

審議会委員であり、エイズ研究班の班長でもあった
安倍英帝京大学副学長は、非加熱製剤をつくっていた
ミドリ十字から一億円近い研究費を受け取っていました。

「私が厚生委員会で安倍教授を厳しく追及すると、
のらりくらりと話をかわすんです。

私は思わず「ここは学会ではない、国会です」と
叱責したほどです。

このとき問題になったのは、厚生省の官僚が
ミドリ十字などの製薬会社に天下りしていたため、
厳格たるべき薬事行政に手心が加えられ、
薬事被害を大きくしたこと。

そういうことにも鋭くメスを入れていったため、
マスコミからは「共産党以上に鋭い長峯議員」
と呼ばれた。」”

 











当時出された後援会の機関誌「政治に愛を」
で、長峯先生は以下の文章を載せられました。

「温故知新―私は最近、聖徳太子の
「十七条の憲法」を読みました。

第一条で「和を以って貴しとなし」と唱った
「十七条の憲法」は、役人の心構えを
示したものです。

そして、その記述されている内容の
ほとんどは、依然としてこの現代社会にも
通用するものです。

改めて全文を読み、推古天皇の摂政として
卓越した指導力を発揮した聖徳太子の
偉大さをつくづく感じました。

特に第十五条「私に背き、公に向うはこれ
臣の道なり」は、千四百年近く経った
現代の政治・行政にも標となります。

(以下略)

薬害エイズ追及に見せた舌鋒の鋭さの背景
には、「私に背き公に向」おうとする精神が
あったのだ。」 






また、性差のない社会実現のため、
男女共同参画社会基本法制定にむけても
尽力され、それらの実績を買われて、
第二次小渕内閣が発足したとき、総理府
総括政務次官
に抜擢されました。

それまでの護送船団方式が解消され、自己責任
が重要視されるようになった中で、内閣官房と
一体となって、政府の諸施策を推進する立場です。

内閣委員会では内閣官房長官に代わって
答弁することもしばしばでした。

男女共同参画基本法の成立に従い、各省庁の
女性雇用の比率を高めるよう尽力
したのも
長峯先生の功績です。

30年以上の間、政治の世界で鎬を削ってこられた
後、明日の日本を背負って立つことになる次世代
の育成
に心を砕かれている長峯基先生。

「政界という泥沼に咲いた一輪の蓮の花」
と、
神渡先生は高く評されました。



”人と自然を調和しながら『持続可能な未来』を共創する”