『400年後の慶長遣欧使節』

スペインを訪問中の皇太子徳仁親王が、国立装飾
美術館の特別展「支倉常長とその時代展」を視察
されました。

支倉常長率いる「慶長遣欧使節」と呼ばれる一団
が、メキシコ経由で欧州に至る旅に出てから、
今年で
400年目



「慶長遣欧使節」とは、慶長18年(1613年)に仙台藩主
伊達政宗
がフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを正使
、支倉常長を副使
として、スペインの国王フェリペ3世、
およびバチカンのローマ法王パウルス5世のもとに
派遣した使節のこと。

江戸時代初期の徳川幕府は、対外政策や宗教政策
において比較的寛大な姿勢を維持していた時代
でした。

そのため外国との交流に目を向ける大名も少なくはなく
、伊達政宗はメキシコ、スペイン、ローマへ向けて家臣
の支倉常長を遣欧使節として派遣します。

慶長遣欧使節は、“日本が初めてヨーロッパの国と
外交交渉をした”
画期的な出来事。

政宗は、仙台藩がスペインと貿易を行うとの理由で、
家康からガレオン船の建造と、使節をスペインへ派遣
する許可、すなわち“外交権”を獲得します。


このようなことが可能であった大名は、日本全国の大名
の中で政宗の他にはいません

政宗が“他の大名達とは別格であった”ということを示す
ものでしょう。

常長が日本人側リーダとして選ばれたのは、「文録の役」
の際の外洋渡航や異国滞在の経験が尊重され、
鉄砲組、足軽組頭としての経験から一行を統率する能力
が評価されたため
と言われています。

が、実は失敗したときの影響を考えて、上級の家臣では
ない常長が選ばれたとも言われています。

支倉氏は、桓武天皇を祖と仰ぐ関東の名族で、源頼朝が
平泉の藤原氏を倒した奥州攻めの直前に伊達氏の配下と
なり、常長の時代まで400年にわたって伊達家一筋に
仕えていました。

常長は1570年頃、今の山形県高畠町立石で生まれて
います。

















彼は豊臣秀吉の奥州仕置に端を発する葛西大崎一揆の
鎮圧や、朝鮮の役においても目立つ功名を挙げ、
若年にして父祖に恥じない武勇を示しました。

葛西大崎一揆の際には、敵将を調略して味方に引き入れる
など、交渉力も抜群だったそうです。

常長は、政宗からローマ法王に宛てた
「世界中で尊ばれておられます教皇パウロ五世聖下に、
つつしんで、私、日本国奥州の大名伊達政宗はご挨拶
申し上げます・・・」

という内容の手紙(手紙には金箔や銀箔を使った紙を
使用)を渡し、メキシコとの通商と宣教師の派遣による
布教を申し込みました。

政宗のこの遣欧使節が何を目的にしていたのか、史家
の間でも意見が分かれていましたが近年、仙台藩で
布教活動をしていたイエズス会宣教師ジェロニモ・デ・
アンジェリスの書簡に、政宗がスペインと同盟を結び
謀叛を起こそうとしている
、といった内容の史料が
ローマで発見されます。

しかし、ローマ法王は宣教師の派遣は同意したものの、
貿易についてはスペイン国王に任せることにしていました。

そのため、一行はスペインに向かい、ソテロとともに国王
と会見して布教と通商を希望したが

「ハセクラはダテの使節であり、日本国の正式な使節と
は認めがたい、また日本ではキリスト教がきびしく弾圧
されていると聞く」

との理由から許可されず、結果を得ることなく帰路につきます。

日本では常長の出航から3ヶ月後、幕府からキリスト教を
禁じ宣教師を追放する令
が出されます。
仙台藩でも常長の帰国直前にキリシタン禁令が出されました。

このため、帰国した常長は使節報告が終わると軟禁生活
が続き、2年後の1622年失意のうちに死去
したといいます。



家康がキリシタン禁令を出した背景は諸説言われています
が、当時スペインが他国を植民地化していったやり方
聞いてのようです。

各地へ宣教師を送り込み、布教の傍らで彼らにその地の
情報を収集・報告させて、最終的には情報をもとに兵力を
送り込んで征服するというもので、中南米に20か国以上
あった植民地は、皆そのやり口
によるものでした。

日本に来ていた宣教師フランシスコ・ザビエルも、その
役割を担っており、日本各地の港の水深や、各藩が保有
している大砲の数、兵力等について、詳細に報告して
いたことが分っています。

家康は、それを見抜き危険を察知して、キリスト教を
禁じたようです。
 




















仙台藩は遣欧使節の顛末を幕府に報告したのち、この件
を完全に秘めていたため、江戸時代を通じて明るみに
出ることはなく、その後日本では忘れられます


時が移り、のちに明治維新の戊辰戦争で仙台藩、会津藩
を倒し、明治新政府を樹立した薩長藩閥政府は、
岩倉具視を全権大使とする欧米視察の旅を行います。

(視察団には、長州藩の木戸孝允、伊藤博文、薩摩藩の
大久保利通らが加わっています)

1873年この使節団がヴェネツィアに赴いた際、常長の
書状を発見。

このとき岩倉視察団がヨーロッパで見たものは、はるか
250年以上も前に仙台藩主伊達政宗が、スペインで
外交交渉を行いローマまで使節を派遣していた、という
衝撃的な事実
でした。

新政府の首脳たちがいかに勇気づけられたかは、想像
に難くありません。

悲劇の人生を送った常長は、400年後の今日、子孫
である支倉常隆さんが皇太子さまに面会できた
こと
を、きっと天国で喜んでいることでしょう。


”人と自然を調和しながら『持続可能な未来』を共創する”