米国の人気作家トム・クランシー氏が1日、出身地の
米東部メリーランド州ボルティモアの病院で亡くなった
そうです。66歳。
トム・クランシー
”1947年米メリーランド州ボルティモア生れ。
保険代理業を営む傍ら9年がかりで執筆した
「レッド・オクトーバーを追え」で、1984年一躍
ベストセラー作家になる。
豊富で該博な知識と詳細なデータをもとに
現代戦の実相を描き、ハイテク軍事スリラー
の元祖となった。
主な著書に「レインボー・シックス」「国際テロ」
「最終謀略」「デッド・オア・アライヴ」など”
クランシー氏は、「レッド・オクトーバーを追え」で
米ソ冷戦下での原子力潜水艦の攻防をスリリング
に描き、世界的なベストセラーとなります。
この物語で 「レッドオクトーバー(赤い十月)」とは、
旧ソ連の先制攻撃型の超巨大な潜水艦の名前を
いい、ロシアの10月(社会主義)革命にちなんだ
もののようです。
物語の中心は、東西冷戦が瓦解する直前、
旧ソビエト連邦の原子力潜水艦を巡り、ソ連海軍
とアメリカCIAプラス海軍の間で展開する駆け引き
・探り合い。
「ソビエト連邦の最新型原子力潜水艦レッド・
オクトーバーが、突然米国東海岸に接近してきた。
攻撃か? 亡命か?
その真意を探るため、CIAアナリストのジャック・
ライアンは、ラミウス艦長(ショーン・コネリー)が
指揮するレッド・オクトーバーに接触しようと試みる…」
冷戦直後の1990年に映画化され、主人公である
ラミウス艦長(ショーン・コネリー)とジャック・ライアン
(アレック・ボールドウィン)という言葉を交わしたことも
ない2人の人物が、数千メートルの距離を隔てて
互いの意図を読みあいながら信頼をエール交換する
のが重要な鍵。
そして、刻一刻と変わる状況下の最新型潜水艦を
めぐる、ソ連側と米国側の登場人物たちの壮絶な
かけひきと、潜水艦同士の戦闘が見どころ。
映画「レッドオクトーバーを追え」
(あらすじ)
”冷戦時代、チェルネンコ書記長政権下のソ連。
ムルマンスク港よりタイフーン級原子力潜水艦
「レッド・オクトーバー」が出航する。
この新造艦の処女航海に艦長の栄を担っているのは
マルコ・ラミウス。
世界の軍事関係者より尊敬と畏怖の念を以って
仰ぎ見られるラミウスはソ連の体制に不満を持ち、
レッド・オクトーバーを手土産にアメリカ合衆国への
亡命を画策する。
彼が亡命に賭けたのは子飼いの士官達が亡命に
同意したこと、そしてレッド・オクトーバーの推進
システム「キャタピラー・ドライブ」である。
この無音の推進システムがあれば、海底ソナーの網
を抜けて大西洋の対岸に辿りつくことが可能であると
踏んだ艦長は、乗組員にはキューバに向かう訓練で
あると説明し疑念を持たせないようにした上で、
政府側のお目付け役である政治将校を殺害、出航前
にソ連首脳部へ自分の意図をしたためた手紙を送り、
後戻り出来ない様に退路を断ち、北海を西へ進む。
ソ連軍の大西洋方面の部隊は艦船数十隻を動員。
自らも演習とNATOに通告した上でレッド・オクトーバー
を追跡、撃沈しようとする。
アメリカ合衆国の幕僚会議はソ連軍の動きを警戒するが
、CIAのアナリスト(分析官)のジャック・ライアンは、
このレッド・オクトーバーの理解を超えた行動の裏に
ラミウス亡命の意図を読みとるも、相手は海面下数百メートル。
最重要人物であるラミウス艦長が亡命前に西側と接触
することは不可能。
しかしアメリカには先入観を持たずに真実を見つける
英知をもつ者が必ずいると信じ、二大強国の狭間に
立つという危険を犯しながら、その見たことのない
「誰か」に命を預けるという事実にライアンは慄然とする。
航行ルートを先読みしたソ連の潜水艦V.K.コノヴァロフ
はレッド・オクトーバーを待ち伏せる。
アメリカ海軍の原子力潜水艦ダラスはソナー員の
活躍によって微かな匂いを嗅ぎ分けて追跡を試みる。
撃沈へ傾く首脳部の疑念を晴らすため、自らも命を
賭けて真実を見つけだそうとするライアンは
悪天候の中で前線に向かう。
無言の会話からコンタクトが始まり光が見えるが、
政治将校との連絡がなくなったことで艦内のKGB
破壊工作員が亡命計画に気づき、原子炉暴走という
悪夢に着手し始めていた…。
一方、アメリカの潜水艦ダラスは、有能な水兵と
イカした艦長のおかげで、付近を通過した無音航行
中のレッド・オクトーバーの位置を見事割り出す事
に成功。
密かにレッド・オクトーバーを尾行するのだった。
そして、ライアンはラミウスの意向を確認し、無駄な
争いを避ける為にレッド・オクトーバーに乗り込む
事を決意。
レッド・オクトーバーに最も近い位置にいる潜水艦
ダラスに飛び乗るのだった・・・”
現実の歴史では、1985年にゴルバチョフがソ連
共産党書記長に就任すると、ペレストロイカを
打ち出します。
米ソ両国は軍縮交渉を再開し、1987年、
中・短射程ミサイル廃棄条約(INF全廃条約)
に調印。
INF全廃条約は、米ソの核兵器全体の量からすると
数パーセントを廃絶する程度でしたが、歴史上
初めての核兵器の削減条約であり、画期的な
出来事でした。
ゴルバチョフ書記長は、1988年のワルシャワ条約
機構加盟国首脳会議で、諸国民の独立と主権の
尊重、内政不干渉の原則を改めて確認すると表明。
これを機にソ連をはじめ東欧諸国では共産主義
国家の解体が始まります。
そして1989年、東西対立の象徴であった「ベルリン
の壁」が解放されます。
この歴史的背景の中で、1989年ブッシュ米大統領
とゴルバチョフ書記長は米ソ首脳会談を開き、
第2次世界大戦後、世界政治を支配してきた
東西冷戦構造の終結を宣言。
それと同時に、米ソ関係が新時代に入ったことを
確認しました。
1990年北大西洋条約機構(NATO)、ワルシャワ
条約機構加盟の22か国が東西冷戦構造の終了
を宣言。
以降、東欧諸国の民主化やソ連邦解体、東西
ドイツの統一など社会主義体制の崩壊が進み、
冷戦構造は崩壊。
「共産主義の敗退」を表すベルリンの壁崩壊の時、
日本はバブル経済で好景気の真っ只中。
バブル沸騰の最終段階で、日経平均株価は
同年12月29日に38,915円の歴史的高値をつけ、
その後バブルがはじけます。
日本のバブル崩壊はニューヨークのブラックマンデー
より2年も後で、べルリンの壁崩壊よりも2ヶ月後
のことでした。
日本は、ベルリンの壁崩壊の歴史的意味とその重要性
に気づくのが欧米よりも随分遅れ、後々まで大きく影響
を受けたといわれています。
ベルリンの壁崩壊はすなわち、東西冷戦の終結であり、
東欧と中国の安い労働力が安い商品の供給という形
で大量に自由経済市場に流入することを意味しました。
結果としてデフレで物価が下がるとともに、世界規模
での経済大競争時代が到来。
それを見越して欧米はビッグバンと言われた戦略を
大胆に実施、フリー・フェアー・グローバルすなわち
、自由・公正・国際化を徹底的に推進します。
日本がその重要性に気づいたのは欧米に遅れること
10年の1996年でした。
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