『人を本当に動かすもの』

「別子全山を青々としたもとの姿にして、
之を大自然に返さなければならない」

伊庭貞剛は、明治中期、住友第2代総理事
として、住友銀行を始め多くの企業の設立
に尽力し、徳を重んじ、常に公利公益を
考えていた企業家






















「住友の事業は住友自身を利するとともに、
国家を利し、社会を利するものでなければ
ならない」
と説き、それを実行し続けたと
いいます。

伊庭が真骨頂を発揮したのは、住友の屋台
骨だった愛媛県新居浜市の別子銅山の紛争
と煙害を見事に収めた
こと。

明治27年早春、住友家が200年にわたって
銅を採掘してきた四国・別子銅山


「ひどいねえ」、と伊庭貞剛は思わずつぶやいた。  

見渡す限りの山々は、木々が根本から掘り起こ
されて、一面、黒褐色の世界だった。

神さまや仏さまや、自然というものに対して
申し訳がないねえ。

すぐ造林をしよう。 
植林予算をすぐに何十倍かに増額して、いや、
何百倍でもよろしい。

この枯れた山、枯れようとしている山に全部「緑」
を返すのです。頼みますよ。」



伊庭の命令にしたがい、大規模な植林が進められ、
ほぼ百年後の昭和42年までに6422万8千本が
植えられた
といいます。

(山林は、その後管理会社として住友林業が設立
され、今日まで住友の山として受け継がれています)

その環境問題への取り組み姿勢は、栃木県の足尾
銅山
の鉱毒問題を糾弾した田中正造も1901帝国
議会の演説で賞賛しました。

伊庭の一連の行動を高く評価し、別子銅山を
「我が国銅山の模範」とまで言い切っています。


伊庭は四阪島完成の前年、明治37年に58歳の
若さで住友総理事を引退。

退任の辞の代わりとして、文章「少壮と老成」
雑誌「実業之日本」に発表しました。

不言実行を旨とし、足跡を残さないことを人生の
理想としていた伊庭が公に発表した唯一の文章。

「早く楽をしたいというような考えではなく、   
  ある一つの目的を確乎と握って、

  一代で出来ねば、
  二代でも、三代でもかけてやる位の決心で、
  一生懸命に人事を尽くすなら、
  成功は天地の理法として自然に来るのである」

 


伊庭の心友である河上謹一は、明治40(1907)年
頃、外務省の後輩だった吉田茂(後の首相) に対し
、伊庭翁に会うことを勧めたといいます。

その時、河上は次のような理由で面会を勧めたと
いいます。

「君が翁に会って必ず得るに違いないと思うのは
、さながら春風のごとき感じである。    

この温かな感じこそは、君が将来世に処し
人に対する上において、いかばかりか資すること
多きや、はかり知れないものがあろうと。」

まさしく伊庭翁の人生から見えてくるもの。

それは、世の中にある幾多の知恵でも腕力でも
解決しない、手のつけようがないものに対しての
救い方の見本


人を本当に動かすもの、それは金でも力でも地位
でも決してなく、事にあたろうとする人間の品性・
人格
なのでしょう。



















”人と自然を調和しながら『持続可能な未来』を共創する”