『失敗を成功の基とするもの』

徳川家康の生涯で、もっとも重大な意味をもつ合戦、
それは「三方ケ原の戦い」といわれています。

1572年(元亀3年)、家康側は信長の援軍を合わせて
1万1千
、それに対して戦国最強と言われた甲斐の
武田軍団は2万5千人
と倍の兵力を有していました。 



この場合、兵法の定石に従えば、野戦を避けて
籠城するのが普通


家康はうかつに城を出ていけば負けるのは必定と、
籠城戦の準備を行います。

ところが浜松城を攻めると思っていた武田軍は、
進路を変えて三方が原
へと向かいました。

老練な信玄は31歳と若い家康を挑発
したのです。
ここで追撃するかどうか軍議が開かれました。

信長から派遣された佐久間信盛は、信玄の挑発に
のるなという信長の忠告を伝え、追撃に反対


徳川家臣団は追撃派と籠城派に分かれます。

軍議の中で、家康の脳裏にあったのは、勝ち目が
なくてもここで城から打って出なくては

家臣がこの後ついてこないだろうという思いでした。

三河一向一揆の危機
を乗り切り、内部体制を
強固なものにしていたものの、盟主が駄目であれば、
家臣の裏切りがすぐに起きる
戦国時代。


自身が切り取ってきた今川家の遠江
が良い例。

勇猛果敢で知られる三河家臣団にとって、
武田にひるんで城から出なかったということは
恥辱になるはず。

こうして、おびき出されるように出撃した結果、
徳川軍は大惨敗を喫します。

死の寸前、家臣に救われた家康は、
命からがら浜松城に逃げ戻り
ます。
https://www.youtube.com/watch?v=1dwY5qc9wGA

そのときの緊張と恐怖の極みの状態にあった
自分の姿を描かせたのが、有名な「しかみ像」


敗残の不様な姿を描かせた武将
は、後にも先にも
家康しかいません。

家康の非凡さは、この敗戦経験から多くを学んだこと。

己の未熟さはもとより、兵法の何たるか、情報戦、
組織戦そして自制の大切さを十分に学び
ました。

後に、大敗したと言えどもあの信玄に挑んだ家康
いうことで、その名は戦国の世に知れ渡ります。

また退去する家康を落ちのびさせるために、
家臣たちが次々に敵中に身を投じ
、討ち取られた
家臣たちは、皆、武田方に向かって倒れていた
いうことで、三河家臣団の勇名を天下に広める
ことになります。


三方ヶ原の敗戦から二十八年たった慶長五年

秀吉亡き後の天下を、石田三成率いる西軍
争った際、家康は見事にこの失敗の教訓を
生かし
ました。

三成ら反徳川勢に挙兵させるため、秀吉子飼い
の反三成派である加藤清正、福島正則、黒田長政

等と上杉討伐に出かけてスキをつくります。

そして兵を挙げた三成ら西軍との決戦前日には、
”三成の本拠、佐和山城を突く〟との偽情報を
流し、大垣城に拠る西軍を「関ヶ原」へ誘いだす
ことに成功
し、決戦では一日でこれを破りました。

かつて信玄が若き日の自分にとった戦法

真似たものでした。

失敗を成功の基とするもの
、それは己の心構えなり
と家康は示しています。

「人は負けることを知りて、人より勝れり」


















”人と自然を調和しながら『持続可能な未来』を共創する”