『為せば成る為さねば成らぬ何事も』

「為せば成る 為さねば成らぬ何事も
成らぬは人の為さぬなりけり」

(人が何かを為し遂げようという意思を持って
行動すれば、何事も達成に向かうのである。

ただ待っていて、何も行動を起こさなければ
良い結果には結びつかない。

結果が得られないのは、人が為し遂げる
意思を持って行動しないからだ。)


米沢藩の第9代藩主、上杉鷹山
は養子に入った藩を
再生させた江戸時代屈指の名君


強いリーダーシップを発揮
した彼は、ジョン・F・ケネディ
大統領が、日本人の政治家の中で一番尊敬している
人物
として名を挙げたほど。

ケネディ大統領の言った、「国家が何をしてくれるのを
問うのではなく、あなた方国民が国家に対して何が
できるかを自問して欲しい」
は有名ですが、これは
上杉鷹山の「伝国の辞」の心と同じもの。

上杉鷹山は、宝暦元年(1751年)7月20日、日向国
高鍋藩主の次男として、江戸で生まれました。

母の春姫は、四代目米沢藩主上杉綱憲の孫娘でした。
宝暦10年に八代目米沢藩主上杉重定の養子となり、
元服の際に名を治憲とします。

翌年、家督を継いで弱冠17歳で九代目米沢藩主
なります。

上杉鷹山が藩主となった頃、米沢藩15万石の財政
は良いものではありません
でした。 

というのも、江戸幕府が開かれた頃、「まだ戦が起こる
可能性がある」
とした上杉景勝(直江兼続) の考えで、
通常よりもはるかに多くの家臣を養っていたからです。

その負担が上杉鷹山が藩主になった頃には著しく、
早急な財政改革が必要でした。

この難関に対して、上杉鷹山は現代でも通じる
ような的確な方法
で乗り切ったのです。

鷹山は、傾いた米沢藩を救うため、「大検約令」を発し、
役人の贅沢や無駄を正すことから、藩政改革への
第一歩
を踏み出します。 

そして藩主自らが率先して節約した生活を行い、
透明な会計を大事にしました。

戸での一年の生活費をそれまでの七分の一
である209両
ほどとして、衣服や食事、本などを
まかないます。

また、日常の食事は一汁一菜衣服は上等な絹
ではなく綿
で作られたものだけで、奥女中は
50人から9人に
減らしました。

明和8年(1771年)には、「御領地高並御続道
一円御元払帳」
という一年間の藩の収入、支出、借金
などを詳しく記載した帳簿
が作られました。

このような帳簿は、米沢藩内ではじめて作られたと
考えられています。





















財政難を克服するため、財政の全体を明らかにして、
役人たちに協力と理解を求めた
ものです。 

寛政3年(1791年)、追手門前、政治所脇に 「上書箱」
いう意見を投げ入れるための箱が設置され、所属を
明確にすれば、藩士だけでなく 、百姓(農民)や町人も
意見書
を入れることができました。 

毎月1日と15日に上書箱が開かれ、藩主が米沢にいる
ときは、本丸御殿の奉行詰の間で開くほど、ここに
寄せられた意見は重要
なものと考えられました。 

鷹山公
の改革、それは次のようなもの。

■藩主である自分は未熟であることを素直に伝えて、
藩士全員に協力を求める

■改革の目的は領民を救うためであり、藩主が豊かに
なるためのものではない

■身分に関わらず、領民のためになる意見を言い易い
風土をつくる

■改革に必要な情報は、藩の上層部だけでなく
末端の藩士にもきちんと伝える


治憲の改革は、領民に対する愛といたわりを第一
するものでした。

そして、人に物を頼む前に、まず頼む人間が自分で
やってみせる
ということを重視しましたが、これは
現代における経営改革につながる大切な考え方。

現代ではとかくやれリスクだ、チャンスだ、とすぐ口に
して利害を先に考え、損得勘定だけで行動する風潮
がある中、 鷹山公の思考と実行力に深く学ばされます

”人と自然を調和しながら『持続可能な未来』を共創する”