『逆境の順境は心の構え方一つで変化する』

「栄枯盛衰は人生の常である。

順境は、いつまでも続くものではなく、逆境も、

心の持ちよう一つで、これを転じて順境たらしめる

ことも出来る。逆境の順境は、心の構え方一つで、

どうにでも変化するものである」

(高橋是清)

この数日大事な用事で仙台へ行っていました。

仙台出身に、「達磨さん」の愛称で庶民から親しまれた

名財政家、高橋是清がいます。仙台藩の下級武士の養子

であった是清は、幕末に米国へ留学していたことがありました。

藩から推薦されてのもので、まだ11歳の時の留学。

しかし米国では留学とは程遠く、知らぬまま奴隷契約書

にサインをさせられて、牧童や奴隷としての生活

強いられます。いくつかの家を転々とわたり、時には

抵抗してストライキを試みるなどの苦労を重ねました。

後年、彼は「達磨さん」の愛称をもらいますが、
これは人相と七転八起の人生の両方から来ている

ものだそう。


明治元年(1868年)帰国
するものの、維新後の

新政府下では戊辰戦争にて賊軍とされた仙台藩出身

の是清には仕事がなく、予備校の教師をしていた

ことがあります。


”「語学なんざ、ばかでもできるのだ」と、壇上
の教師はいった。
「にわとりがときをつくる。そっくりまねてみろ。
馬鹿ほどうまいはずだ」といった。

真之は苦笑して「ノボルさんよりもあしのほう
がばかか」とささやいた。
教師は、おもしろい男だった。

この当時の日本人は英語という学科を畏敬し、

ひどく高度なものにおもいがちであったのを

そのようなかたちで水をかけ、生徒に語学

なめさせることによって語学への恐怖感を

とりのぞこうとした。

教材は、パーレーの「万国史」だった。

この教師は、一ページをつづけさまに読み、
しかるのちに訳し、そのあとそのページを生徒
に読ませ、もう一度生徒に訳させる。 
後年の語学教授法からみれば単純すぎるほどの

教えかたであった。 


教師は、まるい顔をしていた。

「まるでだるまさんじゃな」と子規がいったこと
が、 たまたまこの教師の生涯のあだ名になった。 
教師は、高橋是清といった。”
(「坂の上の雲」司馬遼太郎)


是清は、その後実力が世間に認められるようになり、

やがてその存在が政府の知るところとなります。

明治、大正、昭和の三代を通じての財政家であり、

 大正十年には兇刃にたおれた原敬の後任として

政友会総裁 となり、総理大臣に信任されます。 

何といっても、その生涯の特徴は何度も就いた
大蔵大臣
としての業績にあります。


日露戦争前後の日銀副総裁の時には、英国に駐在して

戦費調達に奔走し、苦心の末八億二千万円の外債

募集に成功


危機財政の切り抜けに何度も腕をふるい

昭和9年の経済的な混乱時には乞われて、81歳での

大蔵大臣に就任。「達磨さんが出てきたから日本は

もう大丈夫だ」と言われます。

事態打開にあたっては、日銀の直接引き受けにより

政府支出を拡げる積極財政に転換。その手法によって、

日本経済は復活し、デフレからの脱却にも成功しました。

しかし達磨さんは昭和11年83歳の時、インフレを抑える
ために軍事予算を縮小しよう
としたことが軍部の恨みを
買い、2・26事件で赤坂の自宅にて兇弾に倒れます。
その後、日本は軍部の暴走を誰も止められず戦争の波

に漕ぎ出ていきます。


是清は、暗さのまったくない人であったそうです。
決して愚痴をこぼさず、日本という国を常に第一に
考えながら、冷静に己が勤めを大事に果たした
ことが

うかがえます。


司馬さんは、幕末から戊辰にかけてさんざんな目に
あわされた東北の地と人々
のことをこう語っています。

「地勢的にも標高の高いところから西方の騒ぎを
じっと見つめる。
そうした余裕、冷静さがあったのでしょうか。
冷静さというのは、知性ということでしょうね。 

その知性について、幕末の東北を考えてみると、
のんびりしていました。
西日本の大名があんなに革命化しているというのに、

東北の大名は情報不足でした。

結局、戊辰戦争でひどい目にあいました。

しかしながら、東北人の先進性、スマートさ、
ハイカラさを考えたときに、江戸中期以後の人文科学

的な、あるいは自然科学的な思想というものが、

東北の思想の中にずっと伝統としてあったのかも

しれないと思えてくるのです。

幕末の英雄、吉田松陰は長州藩の江戸屋敷にいるとき、

上役の許可が出ないものですから、脱藩して東北旅行

に行きます。

あとで勘弁してもらうのですが、本来脱藩はお家取り潰し

、本人は切腹。しかし、それほどまでに行きたかった。


彼は「東北遊日記」という著書に、奥州は英雄が出る

所だと記しています。

どういう英雄を指しているのかわかりませんが、

奥州人の人柄の大きさがイメージとして彼の心の中に

あったのでしょう。


東北を一つの僻地として見る見方が伝統的に
あります。世間にも、東北人自身にもあります。
これが先入観だと思うのです。これを見直す時代が

きましたね。


東北をもっと掘り下げるべきです。東北をその
独自性から見直す。
世界史的な大きな目をもち、東北の人文の伝統を

見直すべきなのです。」

生前に高橋是清翁はこう言いました。
「一足す一が二、二足す二が四だと思いこんで
いる秀才には、生きた財政は分からないものだよ」



是清翁に限らず、古今東西、歴史に名を残した
偉人
をみると最初から最後まで順調だった人は、

まずいないことがよくわかります。


必ず逆境や不運に遭遇しています。その時に、

自分はもうダメだお先真っ暗だと思うか、

逆に飛躍のチャンスと捉えて頑張るか

大きく人生が変わっています。

是清翁を含めた偉人といわれる人は皆、後者の

生き方をしているものですね。


”人と自然を調和しながら『持続可能な未来』を共創する”