『宝積を目指した平民宰相』

司馬遼太郎「街道をゆく3 陸奥の道」を久しぶりに
読みました。

岩手一県はこれをもって四国に相当するほどの広さ
もつだけでなく、明治以降の日本における最大の人材
輩出県


例えば
文学界には石川啄木、宮沢賢治、山口青邨、
政治家では米内光政、後藤新平、斉藤実、原敬、
学問思想では金田一京助、萬鉄五郎、新渡部稲造
など
























盛岡
は、日本の県庁所在地の中でもっとも美しい町
といわれており、樹木が多く目立ちます。
 
紅葉を見せている樹林に遠慮しながらコンクリと
モルタルの建物がひっそりと息づき、
郊外を北上川が流れ、岩手山が悠然と立っています。

原敬という明治政府における最初の平民宰相で、
会津と並び維新において痛烈な戦後処置を受けた、
南部藩の義理・人情の厚さを身に持った偉大な人物。

維新後の処置で、藩首相である楢山佐渡
盛岡北郊の報恩寺で切腹、処刑された日、
原敬は当時14歳でした。




















この寺の塀に近づき、「満眼に悲涙をたたえて歩いた」
といいます。

学問で身を立てようと、原は司法省法学校(後の
東大法学部)に優秀な成績
で合格します。

たとえ賊軍の出身であっても、実力では負けないこと
を証明してみせる
と意気込んで始めた学生生活。

ところが、思わぬ挫折を経験することになります。

寄宿舎の待遇改善の先頭
に立った原は、
賊軍の小倅が生意気な真似をすると見た、薩摩藩出身
の校長と対立
し、激しく反発します。





























「国民誰か、朝廷に弓を引くものあらんや。
勝てば官軍、負ければ賊軍の俗謡あり。
その真相を語れるものなり。」

(原敬日記より)

やがて処分が下り、校長の権威に逆らったと
して、原は退学を命じられます。

そして23歳の時、郵便報知新聞に入社。
語学力を認められた原は、26歳の時外務省
の翻訳係
として採用されます。

そこでも、原を待っていたのは、薩摩や長州が
幅を利かせる門閥の壁


当人の実力でなく、門閥や縁故で出世が決まる
現実
に、原は閑職に甘んじます。

そんな原に転機が訪れたのは明治25年。

門閥や既得権益の壁に阻まれて、多くの国民が
恵まれない
中で、世の中を変えるには、政治を
変えるしかない
と思ったからでした。


その冒頭には、次のような言葉が
記されています。

「死去の際、位階勲等の陛叙は余の絶対
好まざるところなれば、死去せば即刻発表
すべし」

(爵位や勲章は自分の好むものではないから
、たとえ死んでも叙勲など行わないで、すぐ
荼毘に付してほしい)

最後まで、平民・原敬として人生を全うする
それが原の望みでした。

原の愛した言葉があります。
 「宝積(ほうじゃく)」
人に尽くして報酬を求めないという意味。

原が残した遺産は、借地に建てられた小さな家
とわずかな貯金
だけでした。
















原敬は最後の薩長藩閥内閣の寺内内閣
を倒し
、大正7年、最初の政党内閣を立て
ますが、その前年、盛岡報恩寺で
楢山佐渡以下の戊辰戦争殉難者の
50年祭
を行い、みずから祭主になりました。
 
”同志相謀り旧南部藩士戊辰殉難者五十年祭
本日をもって挙行せらる。
顧みるに、昔日もまた今日のごとく国民誰か
朝廷に弓を引く者あらんや。

戊辰戦役は政見の異同のみ。
当時勝てば官軍負くれば賊との俗謡あり。
その真相を語るものなり。

今や国民聖明の澤に浴しこの事実天下に
明らかなり。
諸子もって瞑すべし。

余たまたま郷にありこの祭典に列するの栄を荷う。
すなわち赤誠を披瀝して諸子の霊に告ぐ。

大正6年9月8日 旧藩の一人 原敬


”人と自然を調和しながら『持続可能な未来』を共創する”