ノーベル賞委員会は、2014年のノーベル物理学賞を、
名城大学の赤崎勇教授、名古屋大学の天野浩教授、
およびカリフォルニア大学の中村修二教授に贈ると発表。
名城大学の赤崎勇教授、名古屋大学の天野浩教授、
およびカリフォルニア大学の中村修二教授に贈ると発表。
青色LEDおよびこれを使用した高輝度白色光源の実現が功績として
挙げられています。
LEDが世界で初めて実用化されたのは1962年。
その頃から、青色LEDを実現する材料として「窒化
ガリウム」という素材が注目されていましたが、
光源として使用するためには高品質の窒化ガリウム
結晶を生成する必要があり、この部分が技術的な
ハードルとなっていました。
赤崎教授と天野教授は、1985年、窒化ガリウムを
用いることで、世界で始めて青色発光ダイオードを
実現。
この技術を発展させ、実用化に道を開いたのが
中村教授。中村教授は、赤崎・天野の2氏が確立した
低温結晶化技術をベースに、勤めていた日亜化学
工業にて実用レベルに耐える製造技術を開発します。
用いることで、世界で始めて青色発光ダイオードを
実現。
この技術を発展させ、実用化に道を開いたのが
中村教授。中村教授は、赤崎・天野の2氏が確立した
低温結晶化技術をベースに、勤めていた日亜化学
工業にて実用レベルに耐える製造技術を開発します。
これにより、青色LEDの製品化が実現しました。
当時の小川信雄社長(故人)に青色LEDの開発を
直訴、「開発費にいくらかかるか」と聞かれて
「3億円」と答えます。
従来の開発費を大幅に上回る金額でしたが、
「ええわ、やれ」の一言で実現。
米国留学と開発費を拠出して、中村氏の開発作業
を側面から支援しました。
「中村やったらできる」と見込んで、開発を任せて
くれた小川社長は、「エベレストに世界中から人が
集まるのは、世界一高いからや。世界一を目指せ」
が口癖。
小川社長は、社報で中村さんの仕事を「今後
どれだけ世界の電子工業に利用され、人々に
新しい仕事を与えるか分からない」と称えましたが、
弟子の檜舞台を見ることなく、2002年に亡くなりました。
当時の小川信雄社長(故人)に青色LEDの開発を
直訴、「開発費にいくらかかるか」と聞かれて
「3億円」と答えます。
従来の開発費を大幅に上回る金額でしたが、
「ええわ、やれ」の一言で実現。
米国留学と開発費を拠出して、中村氏の開発作業
を側面から支援しました。
「中村やったらできる」と見込んで、開発を任せて
くれた小川社長は、「エベレストに世界中から人が
集まるのは、世界一高いからや。世界一を目指せ」
が口癖。
小川社長は、社報で中村さんの仕事を「今後
どれだけ世界の電子工業に利用され、人々に
新しい仕事を与えるか分からない」と称えましたが、
弟子の檜舞台を見ることなく、2002年に亡くなりました。
才覚を持つものと発掘するものということで
思い出したのが、斬新な意匠で現代的な息吹
を友禅の世界に吹き込んだ、人間国宝で
京友禅作家であった森口華弘さん。
花鳥をモチーフとした流麗な絵柄が得意で、江戸時代
から伝わる撒き糊技法を漆の蒔絵技法と組み合わせて、
独自の「蒔糊技法」を開発したことで知られています。
華弘さんは、明治42年12月、滋賀県守山市
岡町生まれ。
大正10年、薬剤師を目指して遠縁にあたる京都の薬局
に住み込み、夜学で薬の勉強に励みます。
大正13年より、三代目友禅師・中川華邨に師事し、
華邨の紹介で四条派の画家・疋田芳沼に就いて
日本画を学びます。
昭和14年に独立して工房をもつまで、華邨の工房で
友禅の研究と修行に励み、友禅の基礎と創造力は
この時期に培われました。
その後、博物館で目にした漆蒔絵の梨子地にヒント
を得て、江戸時代から伝わる撒糊技法を、漆芸の
蒔絵技法と組み合わせることを思いつき、
苦心の末、独自の「蒔糊」技術を創成しました。
森口さんが学童のころ、図工の時間に「みかんの絵を
描きましょう」と、担当教師が生徒に指示しました。
そして森口さんが描いたのは、画用紙からはみ出るほど
の大きなみかん。
教師はスイカではなく、みかんを描くようにいいました。
「みかんはもっと小さなものでしょう」。
森口さんは、「みかんはとても甘くておいしいけど、小さい。
だからスイカみたいに大きなみかんがあればいいなあ」
と思って描いたそうです。
でもそれはいわなかった。
次にまたやってきた図工の時間。
今度は汽車を描くようにいわれます。
森口さんは画用紙の中央やや右側に、上から下に
伸びる二本の線を描き、それに短い横棒を入れました。
線路です。
その右手には、たわわに実る稲穂で埋め尽くされた
田を、左手には麦畑を描きました。
面積では右の稲が七、左の麦が五、線路部分が三
という構成。
「汽車を書くようにいったのに、この絵には汽車が
ないじゃないか」と教師から言われた森口さんは、
「汽車はもう先に行ってしまった」と答えました。
そんなことがあって、二枚の絵はどちらも甲乙丙の「丙」
になります。おそらく、トンチンカンな絵しか描けない子
という評価を受けたのでしょう。
そんなある日のこと、臨時に赴任してきた美術の教師
が森口さんの絵をじっと見ていいます。
「この絵はおもしろい。あなたは夢を描きたかったのか
?」
森口さんはうなずきます。
大きくて甘いみかんが欲しかったし、汽車が通り抜ける
のどかな風景が好きだったから。
「それなら丙でなく、甲をあげよう」と臨時の教師から
言われました。
図工で、美術の先生から「甲」をもらえた。
ひょっとしたらぼくには、絵の才能があるのかもしれない。
それが絵を描くきっかけになったと、森口さんは
振り返りました。
京友禅をプロとしてやり続け、人間国宝にまでなった
森口さんには才覚がありました。
その才覚を発掘したのは、臨時に赴任してきた美術教師。
才覚があっても目利きがいなければ才覚は発掘されず、
開花しないまま埋もれてしまうことをよく物語っています。
子どもが持つ無限の可能性に思いをいかにかけられるかは
私たち大人の心がけ次第ですね。
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