『人間力を支える己の人生の深さ』

「逆境」について、以前見たNHK「プロフェッショナル仕事の流儀」

のゲスト、菊池恭二さん(社寺工舎代表)の体験を思い出します。


岩手の農家の次男坊であった菊池さん。一般大工に弟子入りして

修行してから、宮大工に興味を持ち、法隆寺の鬼と呼ばれた

西岡常一棟梁に弟子入り。そこで自分の底の浅さを知り、修業を重ねて、

5年後に薬師寺の塔の図面を書かされ、見事これをやってのけます。

日本の名だたる社寺の建築を受け持つ菊池さんは、独立して

まだ間もない平成8年、目の前が真っ暗になるような試練に見舞われました。 


6700万からの木材を焼失
。工事の最中、材木置き場で火事を起こして

しまったのです。建築に使う材木を含め、工場は全焼。

当時の受注総額は九億円。当然工事は滞り、菊池さんは極限まで

追いつめられます。


「火事になっても仕事をこなさなければならないし、職人も引っ張って

いかなければいけない。 積極的になんとかしていかなければならないんだ、

という考えがあの事件で育ちました。」 


奈落の底ともいうべき逆境から、どう這い上がったのか?

それは下積み修行の苦しい経験から培われたものであると菊池さんは言います。

昭和の名工、法隆寺の鬼と呼ばれた西岡常一棟梁の下で修業したいとの

思いから始まった菊池さんの原体験。


「あんなすごいお堂をつくっている棟梁に一目会いたいという思いと、

そんな偉い棟梁を突然こんな田舎者が訪ねたら迷惑だろうかと怖気づく

気持ちもあって、門の前を何度も往復したり、表札とじーっとにらめっこしたり。

結局は「おまえ、ここに何しに来たんだ」と。ここで尻尾巻いて

田舎に帰っては後悔するぞと己を叱咤して、門をくぐったんです。

出てこられた奥さんに、「岩手から来た大工です。薬師寺で働きたいんです」

というようなことを言った記憶はあるんです。


だけどドキドキして、頭が真っ白で訳が分からない。もう、あの時の緊張感は

いま思い出しても涙が出ます。

その時、棟梁は「宮大工なんか覚えても食えんぞ」と言いましたね。

こっちはそれでもやりたいですの一点張り。

この時、人間性を見られたんだと思います。この若者は(入れても)いいか

という感じだったのかなぁと。」


西岡棟梁のもとで仕事をすることが叶った菊池さんが、いちばん勉強に

なったと語るのは、「お茶出し」。朝5時半に起床し、まず掃除。

棟梁が二人の副棟梁と朝夕に仕事の段取りを打ち合わせする場に、

お茶の用意をする。新人の役回りだったこのお茶出しを、後輩が

入ってきてからもぜったいに他人に譲らなかったといいます。


「棟梁のそばにいれば、匠の技や人使いの妙など、実に多くのことが

学べたからです」段取りの打ちあわせなど聞き流せば、自分には

直接は関係のないこと。しかし「うずうず」した耳には、どれもが

興味深い情報でした。

それがタダで、間近に目撃させてもらえる。名人のふだんの仕事ぶりを

拝見できるどころか、理解力次第で、頭の中まで覗ける至福な場にも

なります。


しかし、これを至福と感じられるか否かは、自分の中に「うずうず」する

気持ちがなければ、損なことをやらされていると思ってしまいます。

宮大工は特殊な世界だから、普通の生活をしている人には遠い世界だと

思われがちです。


しかし、非合理的とか前近代的で片付けられてしまっているものの中にこそ、

現代人が忘れてしまっている力を養成するノウハウが入っているのかも知れません。

菊池さんが、西岡棟梁から引き継いだものの一つに「決断力」があるそうです。


”仕事を任せた職人が「どうでしょうか」と判断を仰ぎに来たとき、

「お前は、どう思うんだ」と聞き返す。

「自分はこれでいいと思う。棟梁、どうですか」、

そう自信を持って私の意見を聞くようでなければ、とてもではないけれど、

心配で任せられない。


だら、「お前は、どう思うんだ」とあえて問い返すことで、決断を促し、

責任の重さを自覚させたわけです。

自分の考えがなければ、どんなアドバイスも意味をなさない。

逆に、自分で決断したという自覚が伴えば、やり遂げたあとには

自信が持てるものですから。”


伝統的技法を受け継ぐ確かな腕だけでなく、失敗の許され得ない

重い決断を下す人間力が求められる棟梁の責任の重み。

その力量を支えるのは、己の人生の深さだと菊池さんはいいます。


「遠野に「焼き上がる」という言葉があるんです。

大変な試練に遭っても、それを乗り越えられた人はさらに大きくなれる、

という意味です」

逆境とこれを乗り越える人間力の素晴らしさを思います。

”人と自然を調和しながら『持続可能な未来』を共創する”