深田久弥氏の名著「日本百名山」
記紀にその名がしるされ、万葉びとが畏れを抱き、
平安歌人によって歌われ、俳人芭蕉はその雄峰
を讃じ、北斎や大雅を魅了しつづけ、宮沢賢治が
四行詩に歌った、日本人の生活と精神的風土に
深く結ばれてきた名峰百座が記されています。
記紀にその名がしるされ、万葉びとが畏れを抱き、
平安歌人によって歌われ、俳人芭蕉はその雄峰
を讃じ、北斎や大雅を魅了しつづけ、宮沢賢治が
四行詩に歌った、日本人の生活と精神的風土に
深く結ばれてきた名峰百座が記されています。
深田氏は、単に山が高いというだけで名山を選ぶということは
しませんでした。選定の基準の第一に「山の品格」を置いたと
いいます。「高さで合格しても、凡常な山は採らない。
厳しさか強さか美しさか、何か人を打ってくるもののない山は採らない。
人間にも人品の高下があるように、山にもそれがある。
人格ならぬ山格のある山でなければならない」
かつての日本で重視されてきた教育。それは、人間の品格を高める
ことを目的としていました。
そして、明らかにそれとわかる思慮、知性、雄弁のたぐいは第二義的なものとされたのです。
江戸時代に行われていた子どもの教育は、世界の最高水準にあった
といわれています。
元禄時代に来日したフランス人は、寺子屋に通う子ども達を見て「日本人の子育て教育は世界の理想であり、とうてい外国人の
およぶところではない」と驚嘆し、目を見張ったといいます。
当時の教育は、現代の学校教育で進めてきた進学や就職に役立つ
という名声や富を得ることにつなげる「利の教育」ではなく、
「叡智」の重要さと学ぶことの必要性を教えるものでした。
「近思録」には、こうあります。
「学ぶ者はすべからくこれ実を務むべし、
名に近づくことを要せずして方に是なり。
名に近づくに意あるときは則ちこれ偽なり。
大本すでに失す」
(学問の目的は本来、自分の能力や人格を磨くことにある。
「学ぶ者はすべからくこれ実を務むべし、
名に近づくことを要せずして方に是なり。
名に近づくに意あるときは則ちこれ偽なり。
大本すでに失す」
(学問の目的は本来、自分の能力や人格を磨くことにある。
だとすれば、学問によって名声や利益を求めようとするのは
本末転倒であり、本物の学問ではない)
ホイットマンは、かつての日本人の顔つきを見て、
「考えぶかげな黙想と真摯な魂と輝く目」と評しました。
それは学校においても家庭においても、自己の品格を磨く修身教育が行われた自然の結果であったのでしょう。
品格を培養するのに必要なこと。それは自己の鍛錬であり、
身を慎むという修養の精神をもつこと。
いくら知識を持っていたところで、あるいは雄弁であったところで、それは二の次。
この「自己を鍛える」教育は、武士階層のみならず、一般庶民の間でも行われていました。
翻って我が身を思うと、鍛錬において先人に遙か及ばない
と深く自省するばかり。
実利、功利という「利」や「得」が重視されてきた現代社会の中での教育の盲点を感じます。
いつでも穏やかで礼儀正しく、周囲を楽しませる教養があり、
相手に対する思いやりを決して忘れない。
威張ったり自慢したりするようなことはなく、好奇心を忘れない。
このような人こそ品格をもって、どこの場に出ても恥ずかしくない
優美な人間なのでしょう。
『山高きが故に貴からず
樹あるをもって貴しとなす
人肥えたるが故に貴からず
智あるをもって貴しと為す
人学ばざれば智なし
智なき者は愚人なり』
先人の言葉を深くかみしめたいと思います。
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