『南朝を支えた皇子のヒロイズム』

師走に入りました。早いもので今年も
あと一月。

「木の葉ふり しぐるる雲の立ちまよふ
 山のはみれば  冬はきにけり」
(新葉和歌集冬)


宗良親王は、その仮名序で「新葉集」成立の
背景
に簡単に触れています。
 
元弘のはじめ、秋つしまのうち、
浪のおとしづかならず、春日ののほとり、
とぶ火のかげしばしば見えしかど、
ほどなくみだれたるををさめて、ただしきに
かへされしのちは、雲のうへのまつりごと、
更にふるきあとにかへり、あめのしたの民、
かさねてあまねき御めぐみをたのしみて、
あしきをたひらげ、そむくをうつみちまで、
ひとつにすべおこなはれしかど、一たびは
をさまり、一たびはみだるゝ世のことわり
なればにや……(93)


幕末志士にとって、新葉和歌集」は「神皇正統記」
と共に座右の書
の一つとしたそうです。

坂本龍馬故郷の姉乙女宛に書いた手紙
よれば、龍馬は京都で新葉集を探し求めたが
手に入らないので、国許土佐にいる吉村三太
という男から新葉集を借りて、筆写して送って
欲しい
と頼んでいます。













1336年、後醍醐天皇足利尊氏に京を追われ、
しばらく比叡山の宗良親王のもとにかくまわれます。

やがて還俗した宗良親王は、それからの三十五年間、
南朝軍を率いて各地に転戦し、足利幕府や北朝に
抵抗
しつづけます。

1374年、老いて信濃国の拠点から退き、吉野で主と
して歌を詠む生活
に入りますが、67歳でふたたび
信濃の南朝軍の指揮官
を命じられます。

その後「新葉集」を編纂し、1385年に東国で南朝軍
を指揮しながら74歳で没した
とされています。

ドナルド・キーン氏は、”『新葉集』は、現代の読者には
あまり見るべきところのない歌集に思えるが、
争乱や危機に直面したときの日本人は、この歌集─
とくにその詞書─を読んで、南朝とそれを支えた人々
のヒロイズムを思い、勇気づけられてきたことだろう”
と評価しました。















 

”人と自然を調和しながら『持続可能な未来』を共創する”