”私は日本の教育スタイルを「ATM型教育」と
呼んでいます(笑)。
お行儀よく口を開いたATMに好きなだけのお金
を入れたり出したりするように、
大人しく座っている生徒に決まった答えを詰め
込んで、解答用紙に暗記したものをそのまま
書き出させる。”
呼んでいます(笑)。
お行儀よく口を開いたATMに好きなだけのお金
を入れたり出したりするように、
大人しく座っている生徒に決まった答えを詰め
込んで、解答用紙に暗記したものをそのまま
書き出させる。”
「なぜ生きているか」を考えることは、 自分にとって
最適な選択をするために役立つと思う。
納得のいく選択の連続の先に幸福があるのでは
というUCLAの学生、悠実さん。
地に足をしっかりつけて自分の道を一歩ずつ
進んでいる姿に共感できます。
”かつて中学生の時、教室内のそういう洗脳的
な雰囲気に強い違和感を抱いていました。
高校の間もずっと同様のことを感じて悩み、
その反抗から2度の停学処分と1度の退学
審査にかけられたことがありました。
(中略)
小学校を卒業をするまでに、少なくとも1000回
は「生きる理由」について自分に問うてきました。
なぜそんなことを考えなきゃいけなかったかというと
、答えは単純で、
「生きるための強烈で納得のいく理由なしに、
生きたいと思うことが不可能」という精神状況で
幼少期を過ごしたからだと思います。
だから、「生きる」ということに対して非常に強い
執着があります。命に対して常に誠実でありたい
と思っているから、
普遍的な正しさを証明することが不可能な世の中
においても、せめて可能な限り自分が正しいと思う
選択にこだわりたいんです。”
http://co-media.jp/recruit-ucla-woman/
この悠実さんの考えを読みながら、以前大澤真幸さん
が語っていた「人間が自由な主体になるためには」
を思い出しました。
” 「人間が自由な主体」になるためには、自分の
存在を認める他人の眼差しが絶対に必要だ。
「他人がいると自由がない」ではなく、「他人が
いなければ人間は自由ではない」のだ。
「自由」はもともと他人を含み込んでいる。
そして、その他人とは神のようなはたらきをする
他人のことだ。
(中略)
「自由」とは「責任」を担うことだ。英語で責任
はレスポンシビリティーという。
レスポンシビリティーとはレスポンス(応答する
、答える)ができるということ、つまり「責任」
とは応答できることをいう。
では誰に応えるのか。
「神のような存在」が私に呼びかけ、その呼び
かけに応じる。それが責任を持つということだ。
「神のようなもの」とは、自分が尊敬し、信頼し
、愛着を持っている人のことだ。
全面的に信頼するような、自分よりも格の高い
他者から、すべて認められているという感覚。
この「神のようなもの」を担うのが、普通は親だ
。もちろん親でなくてもいいし、親だけではない。
だが、成長の普通の段階では、母親の占める
割合が大きいだろう。
母親、父親を100%信頼し、それに身を
委ねるところから、スタートする。
やがて、父母以外の存在も、神のように
感じるようになる。
それは、「世間」や「歴史」、または「人類そのもの
」といった、観念的なものに変わっていく。”
「自由な主体」とは、「責任を担う主体」だと
いう大澤さんの言葉に共感。
今春から中学1年になる息子に、いつか聞かせ
たい言葉です。
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