『タジキスタンのラストサムライ』

5月20日、タジキスタン東部でマグニチュード5.5の
地震があったとのニュース。

震源地は、ログン市近郊で、首都ドゥシャンベでも
揺れが観測されたといいます。インターファクス通信に
よると、震源地はログン市から28キロ、震源の深さ
は11.2キロ。














中央アジアに位置するタジキスタン
は、約14万3,100㎢
(日本の約40%)の土地に820万人ほどの人々

暮らしています。

紀元前4世紀にアレクサンドロス大王がこの地を制圧、
その後紀元前250頃にグレコ・バクトリア王国が成立。

イスラム系の王朝やモンゴル帝国の支配などを経て、
1860年代にロシア帝国に併合され、1991年9月に独立
92年、日本との間で外交関係を樹立します。

独立後、ソ連崩壊で経済貿易構造が崩壊し、大きな
打撃を受け、5年間に渡る内戦もあり、大変困難な時期
を乗り越えてきた国
です。

5年間に渡る内戦
は、独立直後の1992年、政権側の
旧共産党勢力とイスラム勢力を含む反政府勢力との
対立から発生
したもの。

この混乱の中で、ラフモン最高会議議長はCIS合同
平和維持軍の派遣要請等、国内和平達成を目指して
積極的な外交を展開
しました。

しかし、1994年の暫定停戦合意の後も内戦はしばらく
継続し、多くの犠牲者
が出ます。

同年11月には大統領制が復活、それに伴う大統領選
ではラフモノフ氏が当選
。その後も断続的な戦闘状態
が続きましたが、1997年6月に最終和平合意が達成
され、国内情勢は安定化に向かいます。

その後、1999年に憲法改正の国民投票と大統領選挙
2000年に議会選挙が行われ、和平プロセスは完了
しました。

タジキスタンの内戦を振り返る時、現地の人々から尊敬
の意を込めてラストサムライ
と呼ばれた、勇敢で熱意
に溢れた日本人
の存在を忘れることができません。
 











1990年代初頭、ソ連から独立したばかりの
タジキスタンは、政府側と反政府勢力で激しい
内戦が繰り広げられていました。

1994年に停戦合意
がなされるも内戦は続き幼い
子供までもが銃を持ち戦地に駆り出された
といいます。

その内戦に対し、己の身を張ってでも止めようとした
、秋野豊さん
。当時40代だった秋野さんは、筑波大
で旧ソ連圏に関する歴史の教鞭
をとっていました。

ソ連崩壊から間もない激動の時代を自らの肌
感じる
ため、旧ソ連圏を自分の足で見て廻る現場
主義
の人だったといいます。

そんな秋野さんが当時、最も関心を寄せ心を痛めて
いた事
が、タジキスタンで激化する内戦であったそう
です。

1998年、日本の外務省がタジキスタンの紛争解決
のため専門家を募り
、秋野さんの元にその誘いが
届きます。
 
秋野さんは、紛争解決の力になりたいと思いますが
愛すべき妻と2人の娘のことを考えるとどうしても
決断することが出来なかったそうです。

そして悩み抜いた末、遠い異国の平和のために
タジキスタンに渡る事を決意
します。

国連の要請を受けた日本政府が、1998年に秋野
さんを国連タジキスタン監視団(UNMOT)政務
として現地に派遣。勤めていた大学に辞表を出し
タジキスタンの現地に着いた秋野さんは、凄まじい
内戦
の惨状を知ります。

100万人の国民が他国に亡命、5万人以上が戦争
で命を落とし、5万人以上の子供が孤児
となっている・・・

秋野さんは紛争を止めるために、反政府軍のリーダー
たちの元へ足を運び、解決のための対話を試み
ます。
 
リーダーたちは野戦司令官と呼ばれ、大小様々
な規模のグループが存在
していました。













いつ銃口を向けられてもおかしくない状況の中、
秋野さんは平和的な解決のため果敢に話し合い
へ向かった
そうです。
 
彼らに取り入るため、ほとんど下戸であったにも関わらず
、野戦司令官と酒を酌み交わし、何とかして距離を
近づけようと努力
をしたとか。

当時500人以上を束ねた大型グループの野戦司令官
のニゾーモフ氏は、 

”秋野さんは何回も私の家を訪ねてきては、一緒に
食事をしたりサッカーをよく一緒にした。

私の部下の事をよく考えてくれて、いかに平和的な
条件で和解することが出来るか、政府と反政府だった
私たちの間を愛情を持って、最後まで取り持ってくれた。

それまで政府に秋野さんのような人はいなかった”
 
こうした秋野さんの活動はのべ90日間にわたり、10人
以上の反政府軍リーダーと対話
しました。
 
するとそれまで和平交渉に一切応じる事がなかった
反政府軍の中から、武装解除し降伏する者たちが
現れ始めた
のです。

それは遠い異国からやってきた日本人が起こした奇跡
でした。 
 
終わりの見えなかった内戦が和平へ向かった大きな
一歩


そんな秋野さんに現地のタジキスタン人は、尊敬の意
を込めてラストサムライ
と呼びます。


 












そして最後の大物野戦司令官ミルゾ・ジヨーエフとの
和平交渉に向けて、大きな手ごたえ
を感じていた時。

“あともう少しだ。きっとこの国は平和になる”

PKO活動に従事
の帰り道、秋野さんは搭乗する国連
車が首都ドウシャンベ東方の山岳地帯で
、身元不詳
の武装集団による待ち伏せ
を受けます。

同乗のシェフチク少佐(ポーランド)とシャルペジ少佐
(ウルグアイ)の両軍事監視員、タジク人のマフラモフ
通訳兼運転手とともに撃たれて殉職

秋野さんは20発以上の銃弾を受けた状態で、谷底
から発見されます。それは和平を望まないゲリラ組織
の若者による犯行でした。 

1998年7月20日、享年48歳

 
秋野さんは大きな夢を実現させるその直前、志半ば
で帰らぬ人
となりました。
 
タジキスタン国内では秋野さんの死が大きく報じられ、
彼と関わった全ての人間は敵味方関係なく悲しみ
に暮れた
といいます

その死から2年後に内戦が終結
 
秋野さんの平和への活動はタジキスタン政府より感謝
され、2006年タジキスタン大統領から友好勲章
授与されます。
 
さらに秋野さんの名がついた大学が建てられるなど、
亡くなって20年近くが経つ今でも、タジキスタンの人々
から尊敬され愛されて
います。
















 

”人と自然を調和しながら『持続可能な未来』を共創する”