”みんなの意見は案外正しいが、まちがっていることも
あるうえ、だれも責任をとれないし、またそれが計算の
やり方次第で構築されるものだという認識も必要。
でもそれさえわきまえれば、新時代の新しい常識生産
の可能性がここにはある。ついでに、これが普及すれば
これまでの常識の担い手である年寄りの地位は低下
することになり、別の含意が出てくるが……”
(『「みんなの意見」は案外正しい』
ジェームズ・スロウィッキー著)
あるうえ、だれも責任をとれないし、またそれが計算の
やり方次第で構築されるものだという認識も必要。
でもそれさえわきまえれば、新時代の新しい常識生産
の可能性がここにはある。ついでに、これが普及すれば
これまでの常識の担い手である年寄りの地位は低下
することになり、別の含意が出てくるが……”
(『「みんなの意見」は案外正しい』
ジェームズ・スロウィッキー著)
ペッパーAが、あるパーティーのホストを行い、そこで
収集した「何が人々に喜ばれたか」のデータは、
クラウドAIに蓄積され、別の場所にいるペッパーBに
送られます。
ペッパーBは、ペッパーAのデータを元に、人々をより
喜ばれすような働きをする。
個人が蓄積した知を、何らかの価値ある情報に体系付け
したものは、「集合知」(衆知)と呼ばれます。
MITのThomas W.Malone氏は、
「集合知は、1つの目的に向かって知的作業を行う個人
の集合を指す」と定義しています。
多くの人から収集した個々の判断や知識を蓄積し、
ディスカッションなどを通じて間違った情報を削ぎ落とし、
最終的に個々の知識だけでは創造できなかった
より高い次元の知識や最適な解を導き出すこと。
コンピュータが人間のように集合知を得て、気づきを得る
仕組み=最先端の人工知能技術「ディープラーニング」。
グーグルやフェイスブックなどが数百億円規模の激しい
投資・人材獲得合戦を展開しています。
クラウドAIに蓄積され、別の場所にいるペッパーBに
送られます。
ペッパーBは、ペッパーAのデータを元に、人々をより
喜ばれすような働きをする。
個人が蓄積した知を、何らかの価値ある情報に体系付け
したものは、「集合知」(衆知)と呼ばれます。
MITのThomas W.Malone氏は、
「集合知は、1つの目的に向かって知的作業を行う個人
の集合を指す」と定義しています。
多くの人から収集した個々の判断や知識を蓄積し、
ディスカッションなどを通じて間違った情報を削ぎ落とし、
最終的に個々の知識だけでは創造できなかった
より高い次元の知識や最適な解を導き出すこと。
コンピュータが人間のように集合知を得て、気づきを得る
仕組み=最先端の人工知能技術「ディープラーニング」。
グーグルやフェイスブックなどが数百億円規模の激しい
投資・人材獲得合戦を展開しています。
コンピューターやロボットの大幅な進化とその裏にある
集合知の獲得。
果てしなく進む科学技術から生み出されるこれらは、
やがて人間の仕事を奪っていくことも懸念されています。
それだけでなく、人類の価値を奪うことも。
集合知の獲得。
果てしなく進む科学技術から生み出されるこれらは、
やがて人間の仕事を奪っていくことも懸念されています。
それだけでなく、人類の価値を奪うことも。
「ノーベルがノーベル賞を作ったのは、ダイナマイトを
作ってしまったことへの科学者としての罪償感があった
からではないか。
それから、湯川秀樹にしろ、アインシュタインにしろ、
原爆を作ったという罪償感から、戦後は平和運動へと
身を転じていった。」
山折哲雄氏が指摘されたように、利便性の追求を
支える西洋合理的発想の科学技術推進のみでなく、
科学者や産業界に身を置く者は自身の社会的責任
がいつも問われています。
作ってしまったことへの科学者としての罪償感があった
からではないか。
それから、湯川秀樹にしろ、アインシュタインにしろ、
原爆を作ったという罪償感から、戦後は平和運動へと
身を転じていった。」
山折哲雄氏が指摘されたように、利便性の追求を
支える西洋合理的発想の科学技術推進のみでなく、
科学者や産業界に身を置く者は自身の社会的責任
がいつも問われています。
”科学のいちばん大事なことは、「何かを発見する」こと
でもありますれども、同時に「まだ何がわかっていない
のか」「まだ何が解明できていないのか」あるいは
でもありますれども、同時に「まだ何がわかっていない
のか」「まだ何が解明できていないのか」あるいは
「われわれは科学をどこまでしか知らないのか」という
限界を知ることが、科学者としての最低限の能力というか、
識見だと思います。
でも今は、その識見が科学者になくなってきています。
特に自然科学系や工学系では専門分野がものすごく細分化してきていて、生命科学にしろ、免疫学にしろ、
自分たちのやっている研究が、生命全体の中でどう
いう位置づけにあるのかが、わからなくなってきている。
生命全体で見たときに、「自分たちはたったこれだけ
しか知らないのだ」という識見を持てていないことが、
科学者に教養がないことの意味ではないかと思います。
いくら細かいことをやっていても、これが現在の知の
全体の中でどういう位置にあるかを理解し、わからない
領域がまだまだあるという限界の認識を持てるという
ことが、ちゃんと教養があり、信頼できる科学者の条件
なのではないかというのが、私の考えです。”
(鷲田清一・京都市立芸術大学理事長・学長)
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