知り合いのN君より相談がありました。
「江戸時代~戦前~戦後を通した日本人の
考え方・価値観・社会性の変化について
描いた本」で何かお薦めはないか?とのこと。
「江戸時代~戦前~戦後を通した日本人の
考え方・価値観・社会性の変化について
描いた本」で何かお薦めはないか?とのこと。
なかなか難しい選択でしたが、あれこれ候補を
考えた挙句、このような歴史に通底する本の
代表として、「司馬遼太郎対話選集」(文春
文庫)を薦めました。
薦めがてら、以前各巻に自分が朱線を引いた
箇所を読み返し。
このうち対話選集の4巻目に、山片蟠桃に
関する興味深い記述があります。
優れた経済人にして独創的な思想家、山片
蟠桃は、大坂の蔵元として仙台藩の財政を
支える一方、懐徳堂に学び、百科全書とも
いうべき大著『夢の代』を著しました。
経済を論じ、地動説に基づく天文学までを
きわめた江戸の偉才。
”山片蟠桃は1748(寛延元)年、司馬遼太郎
の本貫の地と同じ播州に生まれ、大阪の
主家升家に奉公にあがった。
その頃升屋は米の中買から大名貸しに向う
時期にあたっていた。
1772年に升屋が傾き「身上投出の危機に
陥ったとき、蟠桃が経営の前面に出てこれを
再建した。
1790年代になると升屋は、仙台、尾張、水戸
、越前、佐賀、弘前など40藩以上を取引相手
とし、のちに蟠桃は仙台藩再建にも協力した。
50歳頃から彼は、合理主義哲学の著述に
手を染め、1820年、72歳でその代表作
「夢の代」を完成した。
山片蟠桃の本名は長谷川芳秀で、通称は
七郎左衛門のち小右衛門。
親戚の縁で大阪に行き、升屋=山片家の
平右衛門に奉公します。
升屋といえば、堂島先物取引市場の創設に
加わった老舗中の老舗で、米問屋から大名
相手の金貸しへと業務を発展させていました。
”重賢は学問に理解があり、読書好きの
蟠桃に、大阪でもっとも権威のあった学塾
懐徳堂に通うことをゆるした。
この恩は、蟠桃にとって終生のものとなった。”
リアリズムとしての朱子学をめざすこの学塾
で、蟠桃は中井竹山・履軒兄弟に師事し、
「懐徳堂の孔明」と呼ばれるまでになります。
その重賢が1769年に亡くなりました。
残されたのは、生まれてほどもない嬰児。
蟠桃21歳の時で、主家はにわかに傾きます。
古参の番頭や手代などが去り、升屋の親類縁
者が手を引き、相続問題をめぐっていやなこと
も見聞する中で、蟠桃は24歳の時、6歳の
重芳を擁し、升屋を立て直すことを決意。
この時、升屋の金庫にはわずか60貫の銀しか
残されていなかったといいます。
”その後、升屋の芽が出るまでかれは十一年
苦闘した。
蟠桃のすばらしさは、本来思想家にうまれて
いたはずの人間が、浮世を相手に実務家に
なったことである。
1783年、仙台藩との信頼関係が確立し、藩
の頼みで1万5千両を貸し、以後、藩財政の
立て直しの相談を受けるまでになった。
かれは、コメを根底からカネとして見ることに
よって仙台藩の財政のむだをのぞいた。
つまりコメから”貴穀””という迷信をとりのけた
点、蟠桃の思想性が経済に生かされたと
いっていい。”
蟠桃は生涯一商人として生き、独自の財政観で
傾いた主家を立て直し、大名だけでなく幕府の
重臣からも一目置かれました。
その一方で、学問に親しみ「夢の代」という大著を
書き、晩年には失明になりながらも死の前年に
この大著を書き上げます。
司馬さんは、この山片蟠桃の生き方の中に、
日本人の健全な合理的な精神を見ていたのでは
ないでしょうか。
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