十和田・八幡平の紅葉を見に行っていた
実家の両親から、色あいの綺麗な「りんご」
が届きました。
「鹿角(かづの)りんご」という無化学肥料で
栽培し、農薬散布回数を最低限におさえた
安全で美味しいりんごです。
品種は「トキ」と「シナノスイート」。
実家の両親から、色あいの綺麗な「りんご」
が届きました。
「鹿角(かづの)りんご」という無化学肥料で
栽培し、農薬散布回数を最低限におさえた
安全で美味しいりんごです。
品種は「トキ」と「シナノスイート」。
「鹿角」と聞くと、陸奥の場所柄から私は戦国期
の名将、九戸政実を思い出します。
そもそも鹿角市(かづのし)は、秋田県北東部に
あり、青森県・岩手県・秋田県三県の県境に
位置しています。
古くは「上津野」と表記され、古墳が多く遺されて
おり、大湯環状列石は全国でも著名な縄文遺跡
の1つ。
鹿角一帯は戦国時代、鹿角四頭(かづのしとう)
の支配下でしたが、江戸時代は南部藩に属します。
鹿角四頭とは、鎌倉時代に地頭として陸奥国鹿角
郡に入部した鎌倉武士団の庶流、成田氏とその
一族の奈良・安保・秋元の四氏の国人衆を指す名称。
室町時代には南部氏の影響下で、多くの庶流が
地縁的結合を強めて鹿角郡内及び比内地方に
定着していきます。
そして戦国時代後期には、鹿角盆地を取り囲む形
で村落が形成され、それを背景とした地侍が館を
構築し在地領主として郷村を名字として分立し、
郡内でお互いに勢力を競いました。
その規模は村落単位で50前後が確認されます。
その後、第24代南部家の本家当主である三戸
南部氏の南部晴政、南部一族の有力勢力で
あった九戸氏の連衡と、南部信直を盟主とする
南長義、北信愛の連合の間で南部一族内の
対立が起きます。
地縁的結合を強めて鹿角郡内及び比内地方に
定着していきます。
そして戦国時代後期には、鹿角盆地を取り囲む形
で村落が形成され、それを背景とした地侍が館を
構築し在地領主として郷村を名字として分立し、
郡内でお互いに勢力を競いました。
その規模は村落単位で50前後が確認されます。
その後、第24代南部家の本家当主である三戸
南部氏の南部晴政、南部一族の有力勢力で
あった九戸氏の連衡と、南部信直を盟主とする
南長義、北信愛の連合の間で南部一族内の
対立が起きます。
後に第26代南部家当主となった南部信直は、
一戸城を攻め落として、北信愛の二男・北秀愛
を城主として配します。
一戸城を攻め落として、北信愛の二男・北秀愛
を城主として配します。
(政実は南部一族ではなく、南部氏とは独立
した小笠原氏の勢力であったという説もあり)
世が世であれば、天下に号令することが
できたかもしれないといわれる程の器量を
有していた、政実の生涯は大変に激烈なもの
でした。
「表面的には同盟を結んでいたものの、信直
は糠部の統一を密かに願っていました。その
ため高度な政治活動によって秀吉から七郡
安堵を取り付けたのです。
七郡には当然ながら糠部郡が含まれ、糠部
郡のなかには政実の領土である九戸と二戸
が含まれていました。
信直に対する七郡安堵の情報を得た政実は
激怒しました。それはもう言葉には表せられ
ないほどの怒りです。
した小笠原氏の勢力であったという説もあり)
世が世であれば、天下に号令することが
できたかもしれないといわれる程の器量を
有していた、政実の生涯は大変に激烈なもの
でした。
「表面的には同盟を結んでいたものの、信直
は糠部の統一を密かに願っていました。その
ため高度な政治活動によって秀吉から七郡
安堵を取り付けたのです。
七郡には当然ながら糠部郡が含まれ、糠部
郡のなかには政実の領土である九戸と二戸
が含まれていました。
信直に対する七郡安堵の情報を得た政実は
激怒しました。それはもう言葉には表せられ
ないほどの怒りです。
(ブログ「秀吉に喧嘩を売った男」より)
大軍を擁する中央政権の攻撃を見事に受ける
九戸党の勇姿に、かつての奥州藤原氏の姿を
見ることができます。
この秀吉による天正末年の仕置を契機と
して、鹿角では多くの地士が散亡したといわれて
います。
九戸党の勇姿に、かつての奥州藤原氏の姿を
見ることができます。
この秀吉による天正末年の仕置を契機と
して、鹿角では多くの地士が散亡したといわれて
います。
その後、松代藩、九戸県、八戸県などに編入され
、1871年秋田県に落ち着きました。
、1871年秋田県に落ち着きました。
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