『鹿角りんごと九戸政実の勇姿』

十和田・八幡平の紅葉を見に行っていた
実家の両親から、色あいの綺麗な「りんご」
が届きました。

「鹿角(かづの)りんご」という無化学肥料で
栽培し、農薬散布回数を最低限におさえた
安全で美味しいりんごです。

品種は「トキ」と「シナノスイート」。
















「鹿角」と聞くと、陸奥の場所柄から私は戦国期
の名将、九戸政実を思い出します。

そもそも鹿角市(かづのし)は、秋田県北東部に
あり、青森県・岩手県・秋田県三県の県境に
位置しています。

古くは「上津野」と表記され、古墳が多く遺されて
おり、大湯環状列石は全国でも著名な縄文遺跡
の1つ。

鹿角一帯は戦国時代、鹿角四頭(かづのしとう)
の支配下
でしたが、江戸時代は南部藩に属します。

鹿角四頭とは、鎌倉時代に地頭として陸奥国鹿角
郡に入部した鎌倉武士団の庶流、成田氏とその
一族の奈良・安保・秋元の四氏の
国人衆を指す名称。

建武新政期(1334~36年)、成田頼時は北畠顕家
から鹿角国代に任命され、大里城を拠点として
郡内を支配します。

室町時代には南部氏の影響下で、多くの庶流が
地縁的結合を強めて鹿角郡内及び比内地方に
定着
していきます。

そして戦国時代後期には、鹿角盆地を取り囲む形
で村落が形成
され、それを背景とした地侍が館を
構築し在地領主として郷村を名字として分立し、
郡内でお互いに勢力を競いました。

その規模は村落単位で50前後が確認されます。

その後、第24代南部家の本家当主である三戸
南部氏の南部晴政、南部一族の有力勢力で
あった九戸氏の連衡
と、南部信直を盟主とする
南長義、北信愛の連合
の間で南部一族内の
対立
が起きます。
 
後に第26代南部家当主となった南部信直は、
一戸城を攻め落として、北信愛の二男・北秀愛
を城主として配します。

(政実は南部一族ではなく、南部氏とは独立
した小笠原氏の勢力であったという説もあり)

世が世であれば、天下に号令することが
できたかもしれないといわれる程の器量
を
有していた、政実の生涯は大変に激烈なもの
でした。 

「表面的には同盟を結んでいたものの、信直
は糠部の統一を密かに願っていました。その
ため高度な政治活動によって秀吉から七郡
安堵を取り付けたのです。

七郡には当然ながら糠部郡が含まれ、糠部
郡のなかには政実の領土である九戸と二戸
が含まれていました。

信直に対する七郡安堵の情報を得た政実は
激怒しました。それはもう言葉には表せられ
ないほどの怒りです。


大軍を擁する中央政権の攻撃を見事に受ける
九戸党の勇姿に、かつての奥州藤原氏の姿を
見ることができます。
 
この秀吉による天正末年の仕置を契機と
して、鹿角では多くの地士が散亡したといわれて
います。
その後、松代藩、九戸県、八戸県などに編入され
、1871年秋田県に落ち着きました。








 










”人と自然を調和しながら『持続可能な未来』を共創する”