『人々の心を動かした非凡な政治家』

「外交は政治の一部であり、結果は歴史が判定する。
弱腰外交と呼ばれたアメリカのオバマ外交は果たして
どうか。武断を超えた深謀にも見えるのだが。」



  












(写真元:AFP)

東京新聞の興味深い社説
戦争万能のようだった二十世紀と、戦争に嫌気が
さした二十一世紀とは違う
との指摘に同感です。

さて2013年12月にマンデラ氏の訃報を受けた、
オバマ大統領は米国の行政機関などに対して、
弔意を示すため半旗を掲げるよう
に指示。

そしてテレビ演説で、「私の最初の政治的な活動
は、アパルトヘイト政策への反対運動だった。
私はマンデラ氏の言葉や書物から学んだ」
と、その
死に哀悼の意を表明しました。

そのマンデラ氏は、生前パレスチナの支援者として
中東和平を熱心に推進
したことで知られています。

そのつながりから、今月26日に高さ6メートル・重さ
2トンの銅像が、ヨハネスブルク市から姉妹都市
であるヨルダン川西岸のパレスチナ自治区ラマラ
に寄贈
されました。

マンデラ氏が釈放された1990年から南ア初の黒人
大統領としての任期を終える99年
まで、AFP特派
員としてヨハネスブルクに駐在していたブライアン・ピア
ーソン氏。

ブライアン氏が紹介した、「マンデラ氏は人々の心を
動かした非凡な政治家」
の姿は、とても印象的です。

















(写真元:時事通信社)

”マンデラ氏が出所した1990年から、政界を去る99年
までの軌跡を追い続けるという幸運に恵まれたジャー
ナリストたちの目には、はるかに多くのものが見えていた。

この人は、決して並の政治家ではなかった。
マンデラ氏を追うことは、人生を豊かにする体験だった。
マンデラ氏は私たちを謙虚な気持ちにし、もっと良い
人間になろうと思わせた。

さらに、まだ黒人も白人も、国民の誰しもがアパルト
ヘイトの傷が癒えていない時代に、和解を受け入れ
ようという気持ちにさせた。
例えば、大勢の黒人たちが白人の「第3勢力」に
殺害されたとのニュースが伝えられ、反白人感情が
最高潮に達した時、

ヨハネスブルクの端にあるアレクサンドラ地区で群衆
を前に演説していたマンデラ氏は突然、後ろの方に
立っていた白人女性を指さすと、満面の笑みを浮かべて

「あそこにいる女性は、私の命の恩人だ」と語った。
女性を演台に呼ぶと、暖かい抱擁を交わし、ケープ
タウンのポールスモア刑務所に入れられていた1988
年に結核にかかり、入院した病院でこの女性に看病
されたと説明した。

すると、群衆の雰囲気は一変。復讐を求める声は
歓声へと変わった。

また、南アフリカ大統領を務めていた頃に周辺国の
首脳らが集まる経済会議でのエピソードが
ある。
 














アフリカで起きた危機に対する対応策を首脳らが発表
することになっていた記者会見場で、長時間にわたり
待っていた女性記者の1人が、子どもを学校に迎えに
行かなければならなくなり、やむなく会見場に子連れで
現れた。
間もなく会場入りしたマンデラ氏は、男の子を見るや
いなや、まっすぐ近づいて行き、「おや、こんにちは。
忙しいところ時間を取って来てくれて、とてもいい子
だね」と語りかけた。

親子からは笑顔がこぼれ、他の記者は魅了され、
首脳らは困惑した様子だった。
選挙運動中には、記者らに「きちんと眠ったか」
「朝食は食べられたか」と聞くことを欠かさず、多くの
記者やカメラマンの名前を覚えていて「またお会い
できてとてもうれしいです」と声を
かけてくれた。”
ところで冒頭の東京新聞社説は、オバマ大統領の
新時代に対する試み
について次のように述べています。

「血を流す戦争はマネーを競う経済競争となり
あらゆる分野ではじまったグローバル化は国民国家
の枠組みはゆるがせないにせよ、

国民が国家の言いなりだった時代から、国家が
国民のいうことをより聞かざるをえない時代に突入
している。

  
この外交の結果はまだ見えない。だから評価は
まだ早いのだが世界史への挑戦であることは
疑いないだろう。」

(引用元:http://www.afpbb.com/articles/-/3004567

マンデラ氏の言動に影響を受けたオバマ氏の
平和への挑戦
は、後の世界の指導者達へどの
ように受け継がれていくのだろうか。 

魂の奥底からわき上がる笑顔と形容された
マンデラ氏を懐かしみつつ、次代を思います。

『我が運命を決めるのは我なり』 




”人と自然を調和しながら『持続可能な未来』を共創する”