『真田の地を息子と旅する』

息子と初の二人旅歴史好きの二人が選んだのは、
戦国の雄、真田氏の足跡をたどるというもの。


  








北信州の上田の初日は好天に恵まれました。
駅前の信繁(幸村)像から出発して、上田城跡へ。

真田信繁の父、真田昌幸により築城された上田城
は、第一次・第二次上田合戦で、徳川軍を二度に
わたり撃退した難攻不落の城
として有名。

関ヶ原の合戦後に城は破却され、真田氏の後に
城主となった仙石氏が再建し、7基の櫓と2基の櫓門
が建てられたといいます。

明治維新後には、西櫓1基を残して他の櫓・櫓門は
取り払われます。昭和18年から24年にかけて現在
の南櫓・北櫓として再移築。平成6年には東虎口
櫓門が復元されました。

そして息子が、真田神社で引いたおみくじは大吉!

二日目は、真田の郷巡り
 
幸村も往時に歩いたという、居館から本城跡までの
山道を息子と二人で、気持ち良い汗をかきつつ
二時間ほど遊歩。
 
山頂の本城(松尾城)跡に着き、周囲の山々を
遠望。小国をいかに守り抜くよう、真田氏が知略を
磨き上げていった
のかがよくわかります。息子と歴史
談義に盛り上がりました。

真田氏は、ももとと「狭名田」という名であったとも
いわれていますが、その場所を訪れてみるとたしかに
山あいや川に挟まれた田があり、稲穂が風に揺れて
いました。

有事の際は、本城である松尾城が指令所となり、
真田郷を取り巻く山々に置いた各支城が連携し、
敵を破るという戦略
が取られたであろうと、高台から
遠望しつつ思えました。 

真田氏の祖は、東信濃に古くからいた豪族海野氏
であったという説が有力。

幸隆には長男の信綱、次男の昌輝がいましたが、
いずれも長篠の戦いで討死。そのため、三男の昌幸
が真田家を継いで、その子信之、信繁らと北信の
地を守り抜き
ます。

上杉・北条・豊臣・徳川といった戦国強大国
囲まれる中、時に従い、時に対峙しつつ、やがて
上田城を築き北・東信濃随一の武将に成長した
真田氏。

父祖からの本拠地を離れて上田の地を本拠と
した理由はなぜか?


戦国時代、上田・小県地方の各地には真田氏を
始めとする小土豪が割拠
し、また武田氏や村上氏
等の侵入があり、争乱が絶えない地域でした。

地域の外に目をやると、主君であった武田氏は滅亡
、天下布武にあと一歩であった信長が本能寺で
討たれるなど、目まぐるしく変わっていく天下の形勢

その状況にて、上田・小県地方の一円の支配が
可能であるとみた昌幸の重要な一手。それが上田
城の築城
でした。

天下統一の方向に向う中、山中の天険に籠る時代
から交通要路を抑え、地域経済も把握することは
重要。山々に囲まれた真田の郷の外から情報を
手に入れつつ、その大切さを知っていた昌幸。

”人と自然を調和しながら『持続可能な未来』を共創する”