徳川家康の重臣であった本多正信が、加賀藩に
仕えていた次男、本多政重に宛てた書状が、
金沢市内で見つかったとの報。
仕えていた次男、本多政重に宛てた書状が、
金沢市内で見つかったとの報。
書状は政重の子孫で、高岡法科大の本多俊彦
准教授(日本中近世史)が加賀本多家に
伝わる古文書類の中から発見したもの。
「本多准教授によると、徳川家の参謀として活躍
した正信と加賀藩の重臣だった政重の間では、
公式なやりとりの書状は残されているが、肉親間
で交わされた書状が発見されるのは珍しいという。
本多准教授は「波乱万丈の人生を送った政重を
案じる父親としての思いがあふれた内容で、徳川
家や加賀藩の重臣として有名な本多親子の知ら
れざる一面を示す貴重な史料だ」と指摘している。」
准教授(日本中近世史)が加賀本多家に
伝わる古文書類の中から発見したもの。
「本多准教授によると、徳川家の参謀として活躍
した正信と加賀藩の重臣だった政重の間では、
公式なやりとりの書状は残されているが、肉親間
で交わされた書状が発見されるのは珍しいという。
本多准教授は「波乱万丈の人生を送った政重を
案じる父親としての思いがあふれた内容で、徳川
家や加賀藩の重臣として有名な本多親子の知ら
れざる一面を示す貴重な史料だ」と指摘している。」
本多政重は、加賀藩の重臣「加賀八家」の一つ、
本多家の祖。
しかし政重は、始め徳川家に仕え、その後大谷吉継
、宇喜多秀 家、福島正則、前田利長、上杉景勝、
前田利光(利常)と次々と主君を 変えた「渡奉公
」人でした。
なぜ主君を次々に変えるようになったのか?
また最後は加賀藩の重臣として、幕末まで続く家の
基をどのように築いたのか?
そこには政重の知られざる数奇な人生があります。
本多家の祖。
しかし政重は、始め徳川家に仕え、その後大谷吉継
、宇喜多秀 家、福島正則、前田利長、上杉景勝、
前田利光(利常)と次々と主君を 変えた「渡奉公
」人でした。
なぜ主君を次々に変えるようになったのか?
また最後は加賀藩の重臣として、幕末まで続く家の
基をどのように築いたのか?
そこには政重の知られざる数奇な人生があります。
政重は、本多正信の次男から、天正19年(1591
年)7歳の時、槍奉行の倉橋長右衛門の養子に。
そして慶長2年(1597年)、親友のために徳川
秀忠の乳母子の岡部莊八を斬る事件を起こし、
徳川家を出奔、伊勢に遁れます。
年)7歳の時、槍奉行の倉橋長右衛門の養子に。
そして慶長2年(1597年)、親友のために徳川
秀忠の乳母子の岡部莊八を斬る事件を起こし、
徳川家を出奔、伊勢に遁れます。
その後大谷吉継、ついで宇喜多秀家に仕え、慶長
5年の「関ヶ原の戦い」では、宇喜多軍の一翼を
担い、西軍側として奮戦。徳川方の井伊軍と真
正面から戦います。
敗戦後は近江堅田へ隠棲しますが、諸侯からの
誘いが多く、福島正則に仕えたのち、前田利長に
召し抱えられます。
しかし慶長8年に旧主であった宇喜多秀家が
家康に引き渡されたことを知ると、宇喜多氏縁戚
である前田家のもとを離れました。
そして慶長9年から同16年まで、幕府との関係
づくりに力を尽くしていた、上杉景勝の重臣直江
兼続の婿となります。
召し抱えられます。
しかし慶長8年に旧主であった宇喜多秀家が
家康に引き渡されたことを知ると、宇喜多氏縁戚
である前田家のもとを離れました。
そして慶長9年から同16年まで、幕府との関係
づくりに力を尽くしていた、上杉景勝の重臣直江
兼続の婿となります。
景勝から偏諱を受けて名を直江勝吉と改め、
1万石を拝領。これは、関ヶ原合戦後に会津120
万石から米沢30万石となり、家臣の知行高が3分
の1となっていた上杉家では、まさに破格の待遇でした。
1万石を拝領。これは、関ヶ原合戦後に会津120
万石から米沢30万石となり、家臣の知行高が3分
の1となっていた上杉家では、まさに破格の待遇でした。
政重の実父であった本多正信は、関ヶ原後、幕府
と上杉家とのパイプ役を務めていましたが、慶長14年
にはその建言により幕府からの10万石軍役を免除
されます。
また翌年の将軍徳川秀忠の上杉家桜田邸御成り
においても、正信は上杉家を全面的に支援したと
いいます。
そうした正信の尽力に対して、上杉家として礼状を
送る仕事は、兼続と勝吉(政重)が協働したそう
です。
政重は、病弱であった義弟(兼続の長男)の成長
を確かめると、上杉氏の下から離れ、慶長17年藤堂
高虎の取りなしで前田家に帰参して3万石を拝領。
家老として、前田利常の補佐に当たります。この時に
米沢から政重の妻や本庄長房ら旧上杉・直江家臣
出身者が加賀へ移ったといいます。そして政重と上杉
・直江家との親交は続きました。
慶長18年、加賀前田藩は幕府から越中の返上を
迫られますが、実兄である老中本多正純や実父の
本多正信に運動して、これを撤回させることに成功。
その功により2万石を加増され5万石となりました。
その後、加賀藩が幕府に反逆の疑いをかけられた際
も藩を守り抜きます。正保4年(1647年)、病を
理由に隠居して大夢と号しました。
辞世の句「ひとたつと うちつくる下に 何も無し
おもへばおもふ 夢もまた夢」。
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