1600(慶長5)年9月15日、日本史上最大の野戦として知られる「関ヶ原の戦い」が行われました。(但しこれは旧暦で、現在の西暦では10月21日)長く混迷を極めた戦国時代に終止符を打ち、その後の日本の支配者を決定づけた戦国史上最大の天下分け目の決戦。
豊臣家への忠義から立ち上がり、史上最大の合戦に挑んだ石田三成。数々の戦国武将の成功と失敗を間近に見てきた徳川家康。権力に燃え、天下取りの大博打に挑みました。
司馬遼太郎さんは、累計部数580万部超の名作『関ヶ原』で徳川家康の狸爺としての手練手管を描いています。石田三成が、朝鮮出兵の従軍派に狙われて、最大の敵であるはずの家康の屋敷に逃げ込んだ事件。家康はこのとき秀頼の世を安寧せしめるという口実で武将たちを説得しただけでなく、大乱のあるさいは家康に協力すると約束させてしまいます。
「この一件は、家康の身に、はかりしれぬ収穫をもたらした。世間は、家康に対する認識をあらたにした。
かれが意外にも秀頼思いという点では天下に比類がないということ、つぎに、この老人は、
自分に敵意を持つ三成さえかばうほどの大器量であること、さらには荒大名で知られる七将でさえこの老人の一喝にあえば猫のようにおとなしくなるということー
この三つはたちまち風聞としてひろまり、世間での家康の像を、いちだんと大きくした」
司馬さんは『関ヶ原』の最後を、家康と黒田如水のかけひきでしめくくっています。
かれが意外にも秀頼思いという点では天下に比類がないということ、つぎに、この老人は、
自分に敵意を持つ三成さえかばうほどの大器量であること、さらには荒大名で知られる七将でさえこの老人の一喝にあえば猫のようにおとなしくなるということー
この三つはたちまち風聞としてひろまり、世間での家康の像を、いちだんと大きくした」
司馬さんは『関ヶ原』の最後を、家康と黒田如水のかけひきでしめくくっています。
私は子ども時代、歴史の有名な場面の数々を知るようになっていった中で、とりわけ衝撃的であったのが、この如水と息子の長政のやりとり。
関ヶ原で東軍について戦った長政が報告にきて、家康が自分の手を執って褒めてくれたと語ったとき、如水の表情はすぐれませんでした。
「やがて如水は、家康が執ったというそちの手は、左手であったか。右手であったか、と反問した。『右手でございました』
『すると、そちの左手は何をしていたのか』
長政は、絶句した。長政はついに如水という男が何者であるか、わからなかったであろう」
この後、戦乱は終わり。家康以後の時代が始まりました。尚、来年秋、『関ヶ原』が映画化されることが決定したそう。大河ドラマで黒田如水を演じた岡田准一さんが石田三成役、役所広司さんが徳川家康役とのことで、今から上映がとても楽しみです。
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