『人に安心感を抱かせる人物とは、自己の人生を
一所懸命生きてきた人である』
司馬遼太郎さんが書かれた小説「菜の花の沖」
の主人公、高田屋嘉兵衛の話。
一所懸命生きてきた人である』
司馬遼太郎さんが書かれた小説「菜の花の沖」
の主人公、高田屋嘉兵衛の話。
『英知と良心と勇気という尺度から、
江戸時代で誰が一番偉いかといえば、
私は高田屋嘉兵衛だろうと思う。
それも二番目がいないほど偉い人です』
数々の日本の偉人を描いてきた司馬さんに、
こう言わせた嘉兵衛とは、そして彼の人生とは
どのようなものだったのでしょう。
『淡路の極貧農家に生まれた菊弥少年(
のちの高田屋嘉兵衛)は、貧しい家の食い扶持を
減らすために隣町へ丁稚奉公に出ました。
その後、廻船商人へと成長していく嘉兵衛は、
日本全国を船で廻り、当時大いに必要とされた
木綿の肥料となるニシンを扱いに北海道に
行くようになります。』
嘉兵衛は商いにどんどん成功しますが、その
凄いところは、利益のほとんどを設備投資に
まわし、可能な限り利益を社会に
還元したところです。
嘉兵衛はこう言っています。
『商人というものは利を追うものであり
ながら、我欲ではそれが出来ない。
我欲の強い人間は既にその為に盲目になって
いる、(中略)
だから利という海で泳ぎながら、自分自身の
利については鈍い人間でなければならない』
多くの船を持つことで、大量輸送を可能にし、
庶民の需要を最大限に満たす。
嘉兵衛は、「公益性」という
義を重視したビジネスを推進したのです。
2005年、私は前職の時代に、当時開始した
極東ロシアのタイガ保全プロジェクトの
仕事で初めて、ロシアを訪れました。
その時、この高田屋嘉兵衛のことを思いながら、
自分なりの一所懸命を行いたいと思ったものです。
19世紀の初め、ピョートル大帝以来、
不凍港を求めて南下してきたロシア帝国が、
カムチャッカ半島から千島列島に南下し始め、
日本はロシアとの接触が避けられない状況に
なっていました。
『嘉兵衛は四十四歳の時、国後島でロシアの
軍艦に捕縛されてしまいます。
その軍艦の艦長が、幕府のだましうちにあって、
牢屋にいれられていたのです。
艦の副官が新たに艦長となり、助け出そうとして
南下してきたところ、日本の船を見つけ、
日本人(嘉兵衛達)を捕らえました。
人質をとり幕府と交渉しようとしたのです。
こうして嘉兵衛は捕まりました。
司馬さんは、嘉兵衛をこよなく愛しました。
そして、「今でも世界のどんな舞台でも
通用できる人」と称えています。
『囚われの嘉兵衛と副艦長リコルドは同じ部屋で
寝起きし、「一冬中に二人だけの言葉をつくって」
交渉、嘉兵衛はリコルドに、一連の蛮行事件は、
ロシア政府が許可も関知もしていないという
証明書を、日本側に提出するように説得
しました。
そして、ロシア人は嘉兵衛の魂を信用して、
彼に全権を一任します。
リコルドは嘉兵衛と共に日本に戻り、この両者
の協力が遂にゴローニン釈放にいたる両国の
和解を成し遂げたのです。
嘉兵衛は信頼にこたえようとして、幕府を
口説きに口説きます。
やがて全てうまくいき、ロシア艦長は釈放
されることになります。
嘉兵衛の仕事は終わりました。
司馬さんは、こう語っています。
『高田屋嘉兵衛は大きな仕事をした
不世出の人でした。
われわれは嘉兵衛のような人ではありません。
けれども、人はその人なりに「大将、ウラア」と
いうことがあるといいですね。
総理大臣になることより、大企業の社長になる
ことより、死ぬときに
「大将、ウラア」ということがあるかないか。
あの瞬間がおれの人生だったという思い出を
持つかどうかが、大事だと思います。
すぐれた人間というのは、 金もうけができる人
とか、そういう意味ではありません。
よく働くことも結構ですがそういうことでもない。
やはり魂のきれいな人ですね。』
20代が終わる頃、司馬さんを通して高田屋嘉兵衛
というすぐれた先人を知った私は、人生の中で
本当に大切にするべきものは何であるかを
考えさせられました。
司馬さんの言われた「魂のきれいな人」
が、これからの世の中ではますます大事になる
ことでしょう。
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