自分を客観的にみることの大切さを時折
思います。
「主観的」とは「自分から見る」、「客観的」は
「他人から見る」という立ち位置になります。
基本的に私たち人間は皆、主観的になりがち
ですが、 本当に素敵な人は、客観的で他人
から見た自分をしっかり把握できています。
思います。
「主観的」とは「自分から見る」、「客観的」は
「他人から見る」という立ち位置になります。
基本的に私たち人間は皆、主観的になりがち
ですが、 本当に素敵な人は、客観的で他人
から見た自分をしっかり把握できています。
ふだん意識できているもの(顕在意識)と
無意識にあるもの(潜在意識)とでは、
後者を外に出すことは非常に難しいもの。
文章を書くということや話をすること。
言葉を用いて、自分の中に在ることや
ものを表に出すことはとても大事。
でも、実際に出そうとすると、これまた難しい。
それでも出すことに挑戦し、繰り返すことに意味が
あります。
トライすることで、自己の中にある顕在と潜在の
意識を客観的に見ることが可能になります。
もともと自分の中に在るものを「外に在る」ものと
して落ち着いて見ることが可能になります。
そうすることで、現在の自分と向き合い対話する
ことができます。
自分の中に在るものを磨いて、より成熟させて
いくことを始められます。
「意識」と「無意識」について、以前舞踏家の田中泯
さんが語っていた言葉が、大変興味深いものでした。
「身体について考えると言えば、健康について
の情報ばかりで、そうした身体の持つ可能性
について語られる機会がありません。
生まれてきて、この身体の中に自分はいます。
身体が私にとっての最初の環境で、その環境
とどうやって暮らしていくかが最大の命題で
あるはず。
でも学校や家庭では教えられない。
僕らは生まれてすぐから無意識の時間を
何年間か味わいます。
なぜ人間は最初の記憶を消されているのか?
その後、意識を持って生き始めるけれど、
無意識の生活は奪われてしまった時間で、
ひょっとしたらそこにとんでもない宝が
潜んでいるのではないか。
赤ん坊は骨も弱く筋肉もないのにむずがると
抱きとめられないくらいの力を持っています。
無意識の時代の子どもは天才的だけど、
それを失ってしまう。
無意識の暮らしは数年でも、これまで
生きてきた意識的な時間と同じくらいの
重さではないかという感じがします。
いま自分がいる場所は、「自分が意識できる」と
いうことだけど、それもよく考えてみると危うい
のではないかな。
いまこうして話していても、自分の意識が
「頭の中に確実にある」となかなか思えない。
時々、ここらへん(頭の脇の空中を指して)に
ある気がしますね。」
大河ドラマ「龍馬伝」で、吉田東洋の役を演じた
田中さんに感じたもの。
それは「強い存在感」という月並みな表現が
軽く思えるほどで、全身から発するオーラ。
舞台に立つ田中さんの姿は、「ただ、いま・いる」
ことに尽くしているように見えるといいます。
それは尽くして生きる踊りです。
”無意識の暮らしは数年でも、これまで生きてきた
意識的な時間と同じくらいの重さではないか”
の言葉が自分の中に響きます。
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