「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」
伊勢松坂に温和な常識人として身を処し、古典作者との対話に人生の意味と道の
学問を究めた、本居宣長の有名な句。
伊勢松坂に温和な常識人として身を処し、古典作者との対話に人生の意味と道の
学問を究めた、本居宣長の有名な句。
桜は、その美しい装いの陰に、トゲや毒を隠し持ってはいない。
自ら然るべくあるように、いつでもその生命を捨てる覚悟がある。
あたりに漂う芳香には揮発性があり、あたかも生命の息吹のように、はかなく天に昇るもの。その香にはどこか霊的な働きがみられます。
国学の巨星と呼ばれ、桜と鈴をこよなく愛した宣長。
晩年、桜を題材に 「桜花三百首」ともいう「枕の山」などを残しています。
「花は桜、桜は、山桜の、葉あかくてりて、ほそきがまばらにまじりて、花しげく咲きたるは、又たぐふべき物もなく、うき世のものとも思はれず」
自ら然るべくあるように、いつでもその生命を捨てる覚悟がある。
あたりに漂う芳香には揮発性があり、あたかも生命の息吹のように、はかなく天に昇るもの。その香にはどこか霊的な働きがみられます。
国学の巨星と呼ばれ、桜と鈴をこよなく愛した宣長。
晩年、桜を題材に 「桜花三百首」ともいう「枕の山」などを残しています。
「花は桜、桜は、山桜の、葉あかくてりて、ほそきがまばらにまじりて、花しげく咲きたるは、又たぐふべき物もなく、うき世のものとも思はれず」
本居宣長は、「もののあはれ」とは私たちが想像するような、人間の持つ感情の一種ではなく、「物」が「物」、「事」が「事」としてあることの裡に相即して、この世のありとあらゆる物や事に、その先天的な存在様式として、あらかじめ遍在しているものとしました。
そして、「物の心、事の心」をありのままに知るのは我が「心」であり、空の容器として、物・事のありのままの受容体として機能することになると述べています。
「物の哀(あはれ)という事は、万事にわたりて、何事にも其事(そのこと)其事につきて
有物(あるもの)也」
有物(あるもの)也」
古代日本民族の精神性のなかに有る、あるがままの清き直き真心が「惟神の道」。
真心に立ち戻れば、天下も自ずから安泰と治まり、自然と進むべき道も定まってきます。
日本人一人一人の心に、いつも寄り添ってきた桜の花。古の時代を生きた先人たちの「ものの憐れの心」をさぞかし慰めてきたことでしょう。
真心に立ち戻れば、天下も自ずから安泰と治まり、自然と進むべき道も定まってきます。
日本人一人一人の心に、いつも寄り添ってきた桜の花。古の時代を生きた先人たちの「ものの憐れの心」をさぞかし慰めてきたことでしょう。
「散る花を 惜しむ心や とどまりて また来ん春の 種になるべき」
桜を最も愛した日本人の一人、西行法師。奈良の吉野桜を眺めながら詠んだ句として
よく知られています。西行は、この歌に自分の死を託しつつ、旧暦の二月十六日に入寂しました。
今朝、北星神社にお参りへ行くと、鳥居の下の辺りには、雨ではらはらと散った桜の花がまばらに見えました。
「色そむる 花の枝にもすすまれて 梢まで咲く わが心かな」
西行の「心を知るは心なりけり」という見方に深く肯かされるのは、静かに降る雨も影響していることでしょう。春の雨の日に、桜の花を見やりながら、そんなことを思いました。
桜を最も愛した日本人の一人、西行法師。奈良の吉野桜を眺めながら詠んだ句として
よく知られています。西行は、この歌に自分の死を託しつつ、旧暦の二月十六日に入寂しました。
今朝、北星神社にお参りへ行くと、鳥居の下の辺りには、雨ではらはらと散った桜の花がまばらに見えました。
「色そむる 花の枝にもすすまれて 梢まで咲く わが心かな」
西行の「心を知るは心なりけり」という見方に深く肯かされるのは、静かに降る雨も影響していることでしょう。春の雨の日に、桜の花を見やりながら、そんなことを思いました。
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