『他人の気持ちを的確に理解できる人を人間通という』

「葉公、孔子に語りて曰く、吾が党に
直・躬なる者あり。 
その父、羊を攘みて、子これを証す。 

孔子曰く、吾が党の直き者は是れに異なり。 
父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。 
直きことその中に在り。」



葉公が自信ありげに、父親の窃盗罪をも隠さずに
証言した正直な青年について語りました。

すると、孔子は「真の正直さ」とは「父・母を守りたい、
子を守りたいという情愛」の中にこそある
と言います。

正直さを判定する軸が、「客観的な事実」(葉公)
「主観的な情緒」(孔子)とに分かれています。

さて、あなたならどちらを選びますか?

孔子は、「修身・斉家・治国・平天下」という順番で、
社会秩序は確立されると考えました。
そして家庭道徳の根本にある「親子の忠孝」を
最も重要な徳性としています。

谷沢永一氏は、上記について「直きことその中にあり」
が大きな意味を持っていると言います。

”「正しきことその中にあり」とはいっていないことが
重大なのです。

百人の人間が「正しきこと」を言い出したら、
百五十通りの正しい理論が誕生するでしょう。
何が正しいかを言い出したら、きりがないのです。

また、「何が正しいか」という判断に照らして、
他の人間をずばずばと切っていくことができるから、
「正しいか」「正しくないか」という議論は、
猛烈な攻撃衝動を引き起こします。

「正しいこと」というのは、 いわば闘争の論理なのです。
(省略)


「正義の論理」というのは非常に危険なもの
であり、人を闘争に駆り立て、修羅の巷にする
論理構造ではないかと、私は考えます。

「正義」を重んじて、親子が両方で告発しあうこと
のほうが正しいことだといったら、すべての人間関係
は崩壊してしまうでしょう。

この正義の論理とは逆に、この世を潤滑に回転させて
いくのは孔子のいう「直なること」です。

「直きなること」-「何が人情の自然であるか」といったら、
そこに議論の余地がありません。

親子という関係でいえば、子にとって父や母が自分を
この世に出してくれた存在だという厳然たる事実は、
絶対に否定できない。

その関係というものを、すべての人間関係の根本に
置くことを孔子は求めていた。

親子にとって直なること、夫婦にとって直なることが
人倫の根本であり、倫理学の根本理念ではない
でしょうか。

表現を変えていいますと、「正義」の論理は直進的
に進み、「直」の論理はあるがままに受け取るという
こともできます。

両者の違いは、前に進むか、そっくりその通りに
受け取るかということができます。」

孔子は、あえて「正しきこと」とは言いたてず、
「直きこと」という言い方を選びました。”

ここに孔子の智恵がこもっていると谷沢さんは
言います。















以前、サッカー日本代表の長谷部誠さん
著「心を整える」で、論語の「直にして礼なければ
則ち絞す」(率直なだけで礼を知らないと図々しく
辛らつになるだけだ)
を紹介していました。 

仕事においても子育てにおいても、理想や理念を
追いすぎてしまうと、 職場や家族と衝突
すること
があります。

大切なことは、相手が生きている人間である
ということ。

激動の昭和、戦前の御前会議で大きな決断
求められた時、昭和天皇は、しばしば
「もう少しやわらかいやり方はないか」と事前に
お尋ね
になられたと聞きます。

 「平らけくしろしめせ」(平安に治めなさい)という
のが、皇室の先祖である天照大神が命じた所
であり、
歴代の天皇もそれを守って、「和(やわ)らげ調えて
しろしめす」方法
をとられてきました。

「知(し)ろしめす」とは、「天皇が鏡のような無私の
心に国民の思いを写し、その安寧を神に祈る」
という事です。

「もう少しやわらかいやり方を」と言われた
昭和天皇の姿勢は、皇室の伝統そのものでした。

「他人の気持ちを的確に理解できる人を人間通という」
と言われた、谷沢永一さんの言葉の大事さを思います。


















”人と自然を調和しながら『持続可能な未来』を共創する”