「司馬さんは三内丸山人を、「思いやりの採集時代
の人々」と表現している。こんなに温かく縄文人を
みた人を僕は知らない」
考古学を一般にも分かりやすく紹介し、古代史との
総合をめざした考古学者で、同志社大学名誉教授
の森浩一さんが、亡くなられました。85歳。
の人々」と表現している。こんなに温かく縄文人を
みた人を僕は知らない」
考古学を一般にも分かりやすく紹介し、古代史との
総合をめざした考古学者で、同志社大学名誉教授
の森浩一さんが、亡くなられました。85歳。
「イザナキ、イザナミの人物像は」「黄泉の国はどこ
にあったのか」 「三種の神器・八咫鏡に有力候補」
「古代出雲の姿とは」…
日本神話に秘められた古代史の真相に、森さんは
考古学の成果と実地踏査から迫りました。
にあったのか」 「三種の神器・八咫鏡に有力候補」
「古代出雲の姿とは」…
日本神話に秘められた古代史の真相に、森さんは
考古学の成果と実地踏査から迫りました。
子どものころに土器を拾ったことから考古学に興味
を持ち、旧制中学時代から奈良県の橿原考古学
研究所などに出入りしました。
戦後の混乱期、近畿の発掘調査に携わり、態勢
の整っていなかった学界に貴重なデータを残します。
を持ち、旧制中学時代から奈良県の橿原考古学
研究所などに出入りしました。
戦後の混乱期、近畿の発掘調査に携わり、態勢
の整っていなかった学界に貴重なデータを残します。
魏が邪馬台国の女王卑弥呼に与えた銅鏡が、
近畿で多く見つかる「三角縁神獣鏡」で、
邪馬台国畿内説の根拠とされていることについて、
九州説の立場から国産とする説をいち早く発表
し、議論を呼びます。
司馬遼太郎さんは『街道をゆく19 中国・江南の
みち』の中で、同行した森浩一さんについて、
列車の中で河姆渡遺跡が見えないかと、遠景を
眺め続ける姿をあたたかい視線で記しました。
「すくなくとも六千年前、――稲作遺跡として
世界最古――稲を栽培して暮らしていた文化
が、どういう山川草木のなかで成立したかと
いうかすかな想像ぐらいは、車窓から遠望でも
可能なのである」
(出典:青森県教育庁文化財保護課)
その司馬さんから三内丸山遺跡の物見櫓跡を見て
の感想が、森さんの所へ葉書で送られてきたこと
がありました。(日付は1994年8月3日)
「小生は多少方角オンチです。三内丸山人にも
小生のような人がいたでしょう。
漁の帰途、夜になって方向を見うしなったとき、
もし望楼に焚火がもやされていたら、どんなに
心強いでしょう」
この葉書で司馬さんは、三内丸山人を「思いやり
の採集時代の人々」と表現。
森さんは、「こんなに温かく縄文人をみた人を
僕は知らない」と言いました。
才は才を知るもの。
「一生に一度ぐらいは、命がけで遺跡の保存
運動をやらなければ考古学者じゃない」
日本の考古学研究史に確かな足跡を残して
きたという自負と、一度も官途につかず、
研究を続けてきた矜持を感じさせる言葉です。
天国を案内しつつ司馬さんは、森さんとまた
楽しく歴史を語り合うことでしょう。
その司馬さんから三内丸山遺跡の物見櫓跡を見て
の感想が、森さんの所へ葉書で送られてきたこと
がありました。(日付は1994年8月3日)
「小生は多少方角オンチです。三内丸山人にも
小生のような人がいたでしょう。
漁の帰途、夜になって方向を見うしなったとき、
もし望楼に焚火がもやされていたら、どんなに
心強いでしょう」
この葉書で司馬さんは、三内丸山人を「思いやり
の採集時代の人々」と表現。
森さんは、「こんなに温かく縄文人をみた人を
僕は知らない」と言いました。
才は才を知るもの。
「一生に一度ぐらいは、命がけで遺跡の保存
運動をやらなければ考古学者じゃない」
日本の考古学研究史に確かな足跡を残して
きたという自負と、一度も官途につかず、
研究を続けてきた矜持を感じさせる言葉です。
天国を案内しつつ司馬さんは、森さんとまた
楽しく歴史を語り合うことでしょう。
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