『天の摂理の中に自分を投げ込む』

「世界のいまを論じ、世の行く先を見通す知識人が
少なくなった。

知にたけた人は大勢いるが、重みと信頼感に欠ける。
その論考の背後にひそむ<歴史>が欠如している
から。」

後藤正治氏
が、新聞のエッセイに書いていた言葉。
 















五百年前、春秋末期の乱世に生きた孔子
現代に通じる言葉を遺しています。

「子曰く、学びて思わざれば則ち罔し(くらし)、  
思いて学ばざれば則ち殆し(あやうし)」

(先生(孔子)がこうおっしゃった。
物事を学ぶだけで自分で考えないとはっきりしない
(本当の知識は身につかない)。

自分で考えるだけで師から学ばなければ
(独断・独善の弊害が生まれ)危険である。)

孔子が説いた、「学ぶこと」の中心は、
周代の政治や礼制、倫理の学習にあり、
基本的に「古代の先王の道」を学ぶこと。 

また孔子が考えた「思うこと」の中心は、自分の頭で
自発的に考えることです。 

孔子は、「師や書物からの経験的な学習=学ぶこと」と
「自分自身の合理的な思索=思うこと」をバランスよく
行い、それらを総合することで、正しく有用な知識教養
が得られる
と考えました。

井上靖さん
が生前に著した「孔子」

「五十にして天命を知る」
の言葉について、
孔子の弟子はこう語ります。

「子は五十歳の時、この乱れに乱れた世の中を、
自分の周辺から少しずつでもよくして行こうという
お考えを、はっきりと天から与えられた使命として
自覚され、改めてそれを御自分に課せられたかと
思います。

誰から頼まれたのでも、命じられたのでもない。
自分が生を享けて、この世で為すことは
これしかないとお考えになったのでありましょう。

併し、天から与えられた仕事であるからといって、
必ずしもそれを天が守って下さるとはお考えに
ならなかったと思います。

いつ思わぬ障害が起るかも知れないし、
いつ中道で斃れるかも知れぬ。









大きい自然の摂理の中で生きている小さい人間の
することである。 

思いがけぬ障害が、思いがけぬ時にやって来ても、
いっこうに不思議はない。

だからと言って、己が天から与えられている使命に対して、
いささかも努力を惜しんではいけない。

そういう小さい人間の小さい努力が次々に重なって、
初めて人間にとって幸せな、平和な時代が来ると
いうものである。 

子はこうお考えになっていたと思います。」
 

そして、「天命を知る」ことについて、以下のように
書いています。

「天命を知るということは、こういうことでございましょうか。

御自分のお仕事を天から受けた大きい使命だと
お悟りになったことが一つ、それと同時に、その仕事が
天の弛みない自然の運行の中に置かれる以上、

すべてが順調に運ばれてゆくということを期待することは
できず、思いがけない時に、思いがけない困難に、
いろいろな形で曝されることもあるであろうということを、
確りとお悟りになったことが一つ、

この二つを併せて、このことが天命を知るということに
なるのでございましょうか。

いかに正しい立派なことをしておりましても、
明日の生命の保証すらありません。














いかなる思いがけない苦難が立ち塞がって来るかも
知れません。 

吉凶禍福の到来は、正しいことをしようとしまいと、
そうしたこととは無関係のようでございます。 

大きい天の摂理の中に自分を投げ込み、
成敗は天に任せ、その中で己が信じた道を歩く。 
見事なことでございます。

子以外に、どなたがこのように醒めたお覚悟を
持てたでしょう。」


神渡良平先生がふだん「照隅会」でお話される

天命の自覚と実践はまさに孔子の言葉に相通じるもの
あらためてその有難さを思いました。

どんなに苦しくても、けっして世を捨ててはならない。
人間は、どこまでいっても人間の中で生きなければならない。
そして、乱世においてこそ、世の人々を救わなければならない。


成功や失敗などの判断は人間がするものではなく
天に任せて、ただひたすら己の信じた道を突き進むべし
と説いた孔子。

井上靖さんの文章を通してあらためて大きな敬意を
持ちました。



















”人と自然を調和しながら『持続可能な未来』を共創する”