「男子は生涯一事をなせば足る」(秋山好古)
「成敗は天にありと雖、人事を尽さずして、
天、天と云うこと勿れ」(秋山真之)
「美しき花もその名を知らずして
文にも書きがたきはいと口惜し」(正岡子規)
司馬遼太郎の名作「坂の上の雲」
「成敗は天にありと雖、人事を尽さずして、
天、天と云うこと勿れ」(秋山真之)
「美しき花もその名を知らずして
文にも書きがたきはいと口惜し」(正岡子規)
司馬遼太郎の名作「坂の上の雲」
日本騎兵を育成し、中国大陸でロシアのコサック騎兵と
死闘をくりひろげた秋山好古。
東郷平八郎の参謀として作戦を立案し、日本海海戦
でバルチック艦隊を破った秋山真之。
病床で筆をとり続け、近代俳諧の基礎を築いた正岡子規。
この三人を中心に、維新を経て近代国家の仲間入りを
したばかりの「明治日本」と、その明治という時代を生きた
「楽天家達」の生涯を描いた司馬遼太郎の歴史小説。
篠浦伸禎先生(都立駒込病院脳神経外科部長)と先日
お会いして5時間半ほど懇親し、「脳から観た歴史」を
大いに傾聴する中、この大作に登場する人物と時代
背景などで盛り上がりました。
司馬遼太郎氏は、自身の太平洋戦争末期の体験から
日本の成り立ちについて、深い感慨を持つに至りました。
戦後、新聞社の勤務を経て昭和30年代に作家となった氏が
、昭和43年から昭和47年にかけて産経新聞に連載した
作品が「坂の上の雲」。
「坂の上の雲」とは、封建の世から目覚めたばかりの日本
が、登って行けばやがてはそこに手が届くと思い登って
行った近代国家や列強というものを「坂の上の雲」に
例えた、切なさのこもった題名。
作者が常々問うていた日本特有の精神と文化が、
19世紀末の西洋文化に対しどのような反応を
示したか、正面から問うた作品。
羸弱(るいじゃく)な基盤しか持たない近代国家と
しての日本を支えるために、青年たちが自己と国家
を同一視し、自ら国家の一分野を担う気概を持って、
各々の学問や専門的事象に取り組む明治期特有の
人間像が描かれた大作です。
好古における騎兵、真之における海軍戦術の研究、
子規における短詩型文学と近代日本語による散文
の改革運動など、それぞれが近代日本の勃興期の
状況下で、代表的な事例として丁寧に描写されています。
欧米諸国に追いつこうとして近代化を推し進める
明治日本。
その近代化の原動力となった明治人たちは、未完成
の国家と自らの姿とを重ね合わせ、国創りの一部を
担う気概を持ち、各々の専門分野の確立を目指し
ました。
日本騎兵を育て上げた好古、日本海軍の戦術を確立
した真之、俳句・短歌の革新を成し遂げた子規、
主人公はそんな明治人たちの一例です。
「この物語の主人公は、あるいはこの時代の小さな日本
ということになるかもしれない」と本文で述べられている
ように、国全体がそこに生きる人々すべてが、目の前に
浮かぶ雲(夢、目標)を見つめながら近代化への坂を
上り、その実現に向けて突き進んでいきました。
現代の世界は、グローバル化の波に洗われながら
「国家とは何か、民族とは」をめぐり混迷を深めています。
日本は社会構造の変化と価値観の多様化で進むべき
道が見え難くなっていますが、この「坂の上の雲」は
明治という時代のエネルギーを壮大なスケールで描き、
現代に生きる日本人に勇気と元気を与えてくれます。
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「坂の上の雲 (テレビドラマ)」ナレ―ション
http://www.youtube.com/watch?v=j6Jwc4S3idI
”まことに小さな国が開化期を迎えようとしている。
小さなといえば、明治初年の日本ほど小さな国
はなかったであろう。
産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年
の間、読書階級であった旧士族しかなかった。
明治維新によって、日本人は初めて現代的な
「国家」というものを持った。誰もが「国民」になった。
不慣れながら「国民」になった日本人たちは、
日本史上の最初の体験者としてその新鮮さに昂揚した。
この痛々しいばかりの昂揚が分からなければ、
この段階の歴史は分からない。
社会のどういう階層のどういう家の子でも、ある一定
の資格を取るために、必要な記憶力と根気さえあれば、
博士にも官吏にも軍人にも教師にもなりえた。
この時代の明るさは、こういう楽天主義から来ている。
今から思えば実に滑稽なことに、米と絹の他に
主要産業のないこの国家の連中がヨーロッパ
先進国と同じ海軍を持とうとした。
陸軍も同様である。
財政の成り立つはずがない。
が、ともかくも近代国家をつくりあげようというのは、
もともと維新成立の大目的であったし、維新後の
新国民達の少年のような希望であった。
この物語は、その小さな国がヨーロッパにおける
最も古い大国の一つロシアと対決し、どのように
振る舞ったかという物語である。
小さな日本ということになるかもしれない。
ともかくも、我々は3人の人物のあとを追わねばならない。
四国は伊予松山に、三人の男がいた。
この古い城下町に生まれた秋山真之は、日露戦争が
起こるにあたって勝利は不可能に近いといわれた
バルチック艦隊を滅ぼすにいたる作戦を立て、
それを実施した。
その兄の秋山好古は、日本の騎兵を育成し、史上
最強の騎兵といわれるコサック師団を破るという
奇蹟を遂げた。
もう一人は、俳句、短歌といった日本の古い短詩型に
新風を入れてその中興の祖となった俳人、正岡子規
である。
彼らは明治という時代人の体質で、前をのみ見つめ
ながら歩く。
登って行く坂の上の青い天にもし一朶の白い雲が
輝いているとすれば、それのみを見つめて坂を
登って行くであろう。”
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