一昨日・昨日と2日間に渡って行われた、大学入試センター試験。
今年の志願者は56万672人だったそうです。
大学入試センターによると、雪や電車故障などがあったものの
大きな混乱はなかったとのことで、受験を終えた若者たちは
合否結果の心配はあるが、ひとまず無事試験を終えたことに安堵が
あることでしょう。さて18日の東奥日報に印象深い記事を見つけました。
それは1941(昭和16)年に、若き日の司馬遼太郎さんが大阪から20時間かけて、旧制弘前高校を受験するため弘前を訪れた時のことを紹介しているもの。
(写真提供:(C)Hirosaki City)
「北へ向かう夜汽車が白河を越えると激しい吹雪になったという。
受験生はいつの世も切実だ。
数学が大の苦手だった司馬少年は「僻遠の津軽弘前こそ人煙もすくなかろう」と思い、数学が零点でも英語や国語でカバーすると計算していた。
司馬は後に「地元には地元の秀才がおるということを計算してなかったなあ」
と笑いのタネにした。
よほど悔しかったとみえて、当時の夢をみたり、同じ年齢で旧制高校に受かった人に会うと無性に「卑下を感じた」とか。
の文章だ」と激賞された。
文章が論理的であることの証明だ、と担当編集者だった和田宏さんが述懐している。司馬にとって数学コンプレックスや苦い思い出が一掃される快事だったろう。」
http://www.toonippo.co.jp/tenchijin/ten2014/ten20140118.html
後に、「街道を行く」という歴史エッセイシリーズを司馬さんが
出された時、彼は津軽地方をあえて「北のまほろば」と呼びました。
「津軽も、あるいは南部をふくめた青森県ぜんたいが、こんにち考古学者によって縄文時代には、信じがたいほどに
ゆたかだったと想像されている」
という最上級の場所を意味する古語を使って表現しています。
近畿地方とは異質の歴史と文化をもつ東北に畏敬の念を持ちつつ、
自己の歴史認識に入れる視野の広さ、スケールの大きさこそは
司馬文学の特徴でしょう。
主体的に生きる主人公たちを客観的に描き、
歴史を捉えるダイナミズムに多くの読者が魅了され、ますます
その数は増えるばかり。
という故事を引き、受験生へのメッセージを残しました。
受験勉強は結局、自分との戦いであり、成否はあまり念頭に
置くべきではない、と。
まさしく人事を尽くして天命を待つ、の大事さですね。
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