『プロ野球誕生80年』

「僕の考えでは、感性は持って生まれたものだけど、
感受性は後から身につけられるもの。
決して才能に恵まれなくても、感受性のいい選手は
伸びる、というのが僕の実感です」
(小谷正勝)


1934年、日本で初めてプロ野球選手が誕生してから
80年


手元にある「写真で見る日本プロ野球史」(ベース
ボール・マガジン社1977年)によると、既に先行して
いた学生野球が東京六大学野球を中心に人気を
博していました。

そんな中、「アメリカのプロチームを招いて日本の
アマチームと試合をさせ、本当の野球とは何かと
いうものを見せたい」
と読売新聞社・正力松太郎
社長が企画して初めての日米野球が実現したの
1931年(昭和6年)

その3年後に、当時アメリカ大リーグのスーパー
スター、ベーブ・ ルースを含めた全米チームが
来日
して二度目の日米野球が行われます。 


しかし当時の文部省が、「学校選手は職業野球
選手(米国)と試合をしてはいけない」と野球統制
令を発していたため、日本側は大学を卒業して
いた野球選手で全日本チームを結集。

名投手、沢村栄治もその中に含まれていました。

1934年11月20日、弱冠16歳だった沢村は全日本
入りし、静岡草薙球場で行われた全米選抜との
試合に先発。

三番ベーブ・ルース、四番ルー・ゲーリッグという
強力打線
に対し、「二段伸び」のストレートと「三段
曲がり」のドロップで三振の山を築きます。

ゲーリッグに一発を浴び惜敗したものの、日本に
「サワムラ」ありと全米選抜を唸らせた
のです。

36年に職業野球が発足、巨人のエースとしてその年
の9月25日には甲子園球場でのタイガース戦で
史上初のノーヒットノーランを記録。

37年5月1日タイガース戦、40年7月6日名古屋戦
でもノーヒットノーランを達成するという偉業を成し
遂げました。

しかし41年、2度目の応召で肩を痛め、43年に
復帰しますが、往年のピッチングを見ることは
できませんでした。

3度目の入隊となった44年12月2日に台湾沖で
戦死。伝説の大投手でした。
http://fan.npb.or.jp/photohistory/


正力は職業野球チームの必要性を強く意識し、それが
1934年(昭和9年)12月26日の大日本東京野球倶楽部
の正式発足に繋がります。

12月、沢村らがメンバーとなって、巨人軍の前身である
大日本東京野球倶楽部が発足、日本プロ野球の歴史
が開始。

以来、数々の名選手がファンを熱狂させました。
そしてプロ野球は国民的スポーツとして根付きます。

今や、日本のプロ野球で実績を残した選手が、大リーグ
のチームでも主力を務める時代。
プロ野球の進化には、目を見張るものがあります。

しかし現実には厳しいプロスポーツの世界。

プロフェッショナルと呼ばれるのは、並外れた能力と
並外れた熟練の結晶
がなければなれません。 

プロフェッショナルとは、星の数ほどいる中から選ばれし
だけに与えられる称号。


プロ野球選手は、その名の通りプロと呼ぶにふさわしい
でしょう。

数百万人にのぼる野球人口
の中で、プロ野球の一軍
でレギュラーになれる選手は、プロ野球選手の四分の
一程度。

この一流選手の中から超一流選手と呼ばれる、ほんの
数えるほどの名人たち。

そうした名人たちへのインタビューを収録した、二宮清純
の最新刊『プロ野球 名人たちの証言』(講談社現代新書
)が刊行されました。冒頭の小谷氏の言葉も収められて
います。

「素直なだけでもダメだと思います。いろんな監督や
コーチの言うことを何でもかんでも「ハイ、ハイ」と
聞いていたら、フォームがバラバラになるかもしれないし、
頭の中が混乱してしまいます。

そこで必要なのが、「感受性」なのです。

具体的には、首脳陣のアドバイスの意味をちゃんと
咀嚼しながら、「きっと伝えたいのはこういうことなんだろう
な」と栄養分だけを吸収する。

つまり、感受性とは、感性よりも、もう一段階噛み砕いて、
取捨選択できる資質なのだろうと私は理解しています。

この一つの道を極めた名人たちの言葉は、私たちが
実社会で生きていく上で貴重な道しるべになります。
























”人と自然を調和しながら『持続可能な未来』を共創する”